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栄村復興への歩み
2011年3月に震度6強の地震で被災した長野県栄村で暮らす松尾真のレポートを更新しています。

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「白いカミソリの刃の稜線」――鳥甲山登山の話続編

 No.377(2月12日付)に「ロマンを求める人たち ――鳥甲山登山はどのようにして始まったか」を掲載しました。
 その中で鳥甲山に登る人たちの宿となった仁成館のことに言及しました。この間、相澤清子さんのご協力をいただいて、仁成館に残る史料を基に鳥甲山登山の歴史を追いかけています。その中で、驚くような展開があったので、紹介します。
 4月7日のことだったと思います。夕刻に秋山から帰って来て郵便ポストを覗くと、手紙が1通。1週間前に手紙をいただいた千葉県在住の方からの第2信。すぐに封を開けました。入っていたのが下の写真のものです。

 


 お手紙をくださったYoさんがご友人をあたって探し出してくださったもので、早稲田大学の「山の会」の会誌8号に掲載されたものだそうです。
 私は相澤清子さんに史料を見せていただき、「早大山の会」の人たちが1962(昭和37)年3月に積雪期の鳥甲山に登攀した時の日誌を復刻しました。ただし、そこにはお名前・住所等が記載されているため、安易には公表できません。ある日、その日誌記録を読み返していて、あることを思いました。「この人、1962年3月に『いよいよ卒業も直近。26日からは会社に勤めなければならない』と書いている。ということは当時22歳くらい。今年で80歳だ。なんとか連絡がとれるのではないか。」
 3月26日に、まず、早稲田大学の同窓会を調べました。でも、部外者が卒業生の消息を尋ねる手立ては見つからない。その次に、「早大山の会」でWeb検索をかけてみました。すると、OB会のサイトがあり、しかも事務局にメール連絡が可能。早速、事務局にメールをすると、なんと約1時間後に返信が来ました!「お尋ねの山の会OBの中には既に鬼籍に入られている方もいますが、今も元気に山に登られている方も居ます。そのうちの一人に本メールを転送しておきます。しばらく経ってもコンタクトが無い場合には、再度ご連絡下さい」という、とても親切なもの。そして、4月1日、メールに書かれた「そのうちの一人」であるYoさんから手紙が届きました。
 お手紙に携帯の番号が記されていたので、早速に電話しました。今年79歳とのことですが、とてもお元気な話声です。そし
て、私の方から日誌記録をお送りし、Yoさんから7頁掲載の会誌コピーが送られてきたという次第です。

 

 奇跡のような繋がりの誕生です。
 私はこういうやりとり・作業の中に、山岳観光をメインとする秋山観光の蘇りの1つの鍵があるように思います。地味な作業ですが、コツコツ進めていこうと思っています。

 

ムジナ平から鳥甲山山頂への稜線

3月18日撮影。今年は雪が少ない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
栄村復興への歩みNo.380
2020年4月9日発行 編集・発行人 松尾真
連絡先:電話080−2029−0236、 mail;aokura@sakaemura.net
ゆうちょ銀行 11100−01361481 栄村復興への歩み協賛寄金 ながの農協栄出張所 普通0009390 栄村復興への歩み発行協賛金松尾眞


ロマンを求める人たち ―― 鳥甲山登山はどのようにして始まったか

● 雑誌『旅』1958年8月号
   「鳥甲山という山 知ってる? と そのころ山友だちに

    会うとこっそりたずねるのが嬉しかった」
 こんな一文が含まれる、串田孫一氏(串田氏については本項の最後に記述)のエッセイが『旅』という雑誌*の1958(昭和33)年8月号に掲載されました。
    *雑誌『旅』は1924年から2012年まで発行されてい

     た旅行雑誌。発行元は日本旅行協会、日本交通公社

     (後にJTBに社名変更)、新潮社と変わった。1958

     年当時は日本交通公社発行。
 もう半世紀前のことになります。串田さんが「鳥甲山という山知ってる?」と友だちの問いかけたのは、鳥甲山がまさに無名の山だったからこそです。その時代の登山家たちは無名の山こそを求めたのです。鳥甲山−秋山がある上信越国境はそうした登山家たちにとって最も魅力溢れるところだったのです。なぜ、無名の山、未踏の山を求めるのか? 〈ロマンを求める〉ということなのでしょう。

 

 さて、串田さんのエッセイがきっかけとなって、日本中の登山愛好者に鳥甲山の名と素晴らしさが知られるようになり、いっきに登山者が増えたと言われています。
 串田孫一さんが鳥甲山に登る時、定宿にしていた「仁成館」(和山、現在は廃業)の2代目当主・関谷清さんの二女である相澤清子さんは子どもの頃、仁成館に来られる串田さんに可愛がられたそうで、串田さんのことをよくご存じです。その相澤清子さんが、「串田先生が雑誌に鳥甲山のことを書かれたのがきっかけで登山者が増えたのよ」と言っておられるので、間違いない歴史的事実だといえます。

 

● 1937年(昭和12年)8月、中村謙さん、関谷清さんが鳥甲山にチャレンジ
 串田孫一さんとほぼ同世代で著名な登山家に中村謙さんという人がおられました。
 中村謙さんも「仁成館」を定宿とされていて、相澤清子さんはよく覚えておられます。中村さんが鳥甲山のことも書いている『ふるさとの山――上信越国境を歩む』(1969年・昭和44年刊)という本を清子さんがお持ちで、最近、拝見させていただきました。
 その本には次のように記されています。

 

   「私が初めて秋山郷を訪れたとき、古老から聞いたところに

    よると、むかしは村の人々で鳥甲山へ上ったものもあった

    が、この頃では全くなくなった。したがって、山中の事情

    にも疎いためか、村人は日夜これを仰いで恐ろしい山、近

    よりがたい山として、徒(いたずら)に神聖視するだけだと

    いう。」

 

 中村氏は、1934年(昭和9年)7月から9月にかけて2組のグループと個人1名が鳥甲山登山に挑戦したと記しています。そして、1937年(昭和12年)8月15日、中村氏が「仁成館」の関谷清さんと共に、鳥甲山にチャレンジしたことが書かれています。

 『ふるさとの山』では、白沢から登り始め、鳥甲山頂上への登攀に成功、その後、露営をして、翌16日、五宝木を経て北野に下山したと、ある意味では淡々と書かれています。しかし、実際は「鳥甲山初の遭難」という騒ぎがあったようです。当初の予定では15日のうちに「仁成館」に戻る予定だったのが、翌16日の夕暮れが近づいても帰ってこないので、消防団が捜索・救助のために「仁成館」前に集合していたところに中村さんと清さんが戻ってきたというのが実際であったというのです。相澤清子さんがそのように記憶されています(清子さんは、その頃、まだ生まれておられませんが、親などからそういう話を聞いて覚えておられます。)

 

上ノ原「とっちゃ」から見る鳥甲山

 

中村謙さんの本に掲載の地図。赤色の矢印の地点から←方向に眺めた様子が左写真になります。


● 「猛烈な篠竹のヤブ」
 中村謙さんの自筆の登山記を拝見する機会がありました。その登山記によれば、白沢からアタック。現在のムジナ平から尾根を上っていく登山道は当時はまだありませんでした。7頁掲載写真の撮影地点(「とっちゃ」)付近から夏でも残雪のある白(くら)の沢を遡っていって、尾根(黒木尾根)を上がり、さらに「猛烈な篠竹の薮」と約30分格闘して頂上直下に到る、その後20分で頂上に到達したとのことです。
 「篠竹の薮」が非常に大変だったようで、鳥甲山の登山コースとして自分たちが進んだ白沢コースを薦めながらも、「篠竹のヤブくぐりの経験のない者には無理だ」と書かれています。そして、相澤清子さんによれば、この時の「遭難」騒ぎをきっかけとして、関谷清さんが今日につながる鳥甲山の登山道の開発に乗り出されたそうです。

 

 鳥甲山登山にこんな歴史があったとは驚きです。
 こういうことを知るのと知らないのとでは、鳥甲山の魅力、さらに秋山(−栄村)の素晴らしさを発信していくうえで大きな違いがあると思います。逆に言うと、秋山の山岳観光を謳いながら、栄村からの情報発信に串田さんや中村さんのことが出てこないのはおかしいと思います。素っ頓狂な思いつきと笑われるかもしれませんが、こういう歴史(物語)を明らかにしていけば、たとえば『ブラタモリ』のような全国放送の本格的な番組で鳥甲山や秋山を取り上げてもらうことにもつながっていくと思うのです。

 

 今回はまだほんのささやかな序章です。今後、この続きを紹介していきたいと思っています。是非、ご注目ください。

 

    〔串田孫一さん〕哲学者にして詩人・エッセイスト、

     登山家。1915(大正4)年−2005(平成17)年。

     東京外国語大学教授であった。山に関する著作を

     多く残している。また、長年、FMラジオのパーソ

     ナリティも務めた。長男の串田和美氏は現在も活

     躍中の演出家・俳優。


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