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栄村復興への歩み
2011年3月に震度6強の地震で被災した長野県栄村で暮らす松尾真のレポートを更新しています。

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集落のルーツ(歴史)を知り、復興への力を湧き出させる

 今次震災の復旧・復興において、小滝集落の熱心な取り組み、元気さはみなさんがすでによくご存知のことと思います。
 思慮浅く、口の悪い人は、「最初は張り切ってやるけども、しばらくしたらダメになる。まあ、頑張ってくれや」などと言ったりするそうですが、小滝の取り組みはそんな底の浅いものだとは思いません。
 小滝の熱心な取り組み、元気さの背景(根っ子)には、しっかりとした3つの要因があるといえます。

 1つは、集落の結束の強さです。
 その特徴がよく出ているのが新年会や祭りの取り組み。帰省者も含め、集落の全員が顔を揃え、和気あいあい、飲んだり、しゃべったりします。まるで「小滝一家」という感じです。

 2つは、数年前からコツコツと古道・志久見街道の整備作業を続けてきたことです。
 小滝は高齢化が進み、堰普請だけでも大変なのに、それに加えて古道整備にまで取り組んできました。そういう努力の積み重ねがあったからこそ、震災からわずか半年強の時点(昨年10月30日)で50名を超える人たちを小滝に呼び寄せ、古道歩きのむらたびを成功させ、今年も11月4日に再び古道歩きツアーを成功させたのです。
 ここで1つ注目しておくべきは、小滝がうまく「外の風」を取り込んでいることです。「外の風」とは、集落外部の人が持ち込む力のことです。その1つの典型として「田舎で働き隊」の「ミクロさん」こと河原崎彩子さんが描いた小滝集落マップを紹介しておきましょう(下部に掲載)。この絵地図は小滝の自慢になっていて、小滝公民館を訪れた人が必ず注目します。

 3つは、集落の歴史を学んでいることです。
 こんな話を聞きました。地震で田んぼがひどく壊れ、離村者が出て空いた田んぼも大量に生まれ、「もうこんな田んぼ、やめようか」という話が出たとき、「去年、小滝堰のことを書いた歴史文書について教わった。ご先祖があんなに苦労して築いてきた田んぼを俺たちが放棄することはできない。なんとしてもやろう」という声が若者から上がったというのです。
 この若者が言った「歴史文書について教わった」というのは、地震の前年(2010年)の9月に歴史研究者・白水智さんのグループに小滝堰について書かれた島田家文書を解説してもらった、小滝公民館での学習会のことを指しています。

小滝堰に関する島田家文書
 そこで、今日は、その時に教わった文書の中の1点について、原文、読み下し文、現代語訳を紹介したいと思います。
 まず、原文は以下のようなものです。


 元禄8年=1695年に小滝の住人6名が連名で箕作村の庄屋・島田三左衛門に提出した文書です。
 現代に生きる私たちは、このままではなかなか読めませんので、白水グループの鈴木努さんに、まず、読み方を教わりました。その結果が次頁の「読み下し文」です。


 これで、ひとまず読めたことになりますが、意味がよくわからない箇所がたくさんあります。そこで、現代語訳すると、以下のようになります。

【現代語訳】
一札を指し上げます

 このたび、松平様(注:飯山藩の殿様)が小滝に新田を拓くとよいと計画され、大久保の奥山から堰の工事をなされることを(島田様(注:庄屋)から)お聞かせいただき、その趣旨を理解いたしました。この堰が出来ましたならば、永代にわたって小滝の助けになるものと有難く存じあげます。小滝は暮らしが行き詰っており、いずれお百姓を続けることが困難になると思っていましたところ、堰が出来ましたならば水がたくさん確保でき、新田を切り拓いてお百姓を勤めることができると、かたじけなく存じ奉ります。
 然るうえは、新田を切り開く場所を六つに分け、五つは小滝の者で分け、残りの一か所は島田様のお取り分とし、その場所は島田様の思い通りにお取りください。田地を切り開く時は、島田様のお指図をうけて、切り開きます。今後、この新田の件についていっさいこの約束に反することを申しません。後日のため、一札指し上げます。
 これで意味もおわかりいただけたと思います。
 この文章の読解上、1つのポイントがあります。それは、この小滝堰をつくり、新田を開発するという計画が誰から出たのかということです。
 原文の「堰御普請被遊候由被聞」という箇所の敬語の使われ方です。島田氏が小滝の人たちにむかって「ご普請なされることを話して聞かせた」ということですので、島田氏が普請の計画者にむかって敬語を使っていることになります。つまり、普請計画者は庄屋の島田氏の上に立つ者=藩主(松平氏)だということがわかるという次第です。
 江戸時代の歴史を学ぶとき、領主や代官というものは百姓から搾り取れるだけ搾り取った悪者として描かれることがしばしばありますが、年貢を確保するためにも、ただ搾り取るだけでなく、新田開発、そのための堰建設などに力を入れたのです。もちろん、その背景には小滝−箕作村の強い働きかけがあってのことです。
 堰を開く工事は小滝の人たちが総出で担いました。「大久保の奥山」から小滝まで、直線距離でも4kmはあります。それが山や谷をぬいながら、くねくねと曲がったりしながら勾配をつけてくるのですから、水路の総延長は10kmをくだりません(7頁の地図参照)。
 その水路を切り開いた結果、いま、小滝の千曲川沿いに見られる田んぼがはじめて確保されたのです(現在の田んぼは圃場整備されたもので、元禄当時はもっと小さな田んぼの集合体だったのですが)。


歴史を学ぶと、どうして力が湧き出てくるのか
 このような歴史を学ぶと、なにか力が湧き出てくるものです。
 なぜでしょうか。
 私たちは、一人で生きているわけではありません。いま、集落で暮らしている者だけで生きているわけでもありません。震災直後にはたくさんのボランティアの人たちがやって来て、援けてくださいました。これは、「いま」「現在」という時点での〈人と人の(無限)の関係〉を示しています。私たちは自分だけで生きているのでもなく、経済(カネ)の力だけで生きているのでもありません。他者と共に生き、他者によって生かされている存在なのです。
 同時に、「いま」「現在」の人と人の関係だけで生きているのでもありません。過去、すなわち先祖の努力があってこそ、今日の私たちがあるということです。いまの人とむかし(過去)の人の間の〈人と人の関係〉です。
 さらに、自然との関係があります。私たちが平素はあまり出入りしない大久保の奥山が育む水が何百年もの間、変わることなく流れ下り続けていることが、いまの私たちを支えているのです。
 こういう現在から過去にまで遡る〈人と人の関係〉、さらに〈人と自然の関係〉が私たちを生かし、生きる力を与えてくれるのです。しかし、こうした関係性は現代の都市にあってはほとんど見えなくなっているものです。それが小滝、そして栄村では目に見え、実感できるのです。
 ですから、多くの都会の人が“癒し”を求めて古道歩きのむらたびにやって来るのだといえるでしょう。
 
 私たちの、集落の、村のルーツ(歴史)を遡る中から、私たちのむらにしかないもの(=地域資源)を見つけ出していけば、それが私たちを元気にし、震災復興=村の再生につながっていくのだと確信できるのではないでしょうか。
 小滝の実践はそのことを示しています。そして、どの集落にも、同じような取り組みが可能だと思います。白水さんたちが震災からレスキューしてくれた(救い出してくれた)歴史文書や民具を活かしたむらづくりを是非、進めていきたいものです。
(なお、古文書の読解は私の力に余るものですが、白水さんのグループのお力をお借りして、今回につづく文書も公開していきたいと考えています。)


※クリックで拡大

左下の赤丸が小滝堰の出発点(かけ口)、小滝集落は中央上の赤丸。

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