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栄村復興への歩み
2011年3月に震度6強の地震で被災した長野県栄村で暮らす松尾真のレポートを更新しています。

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6月4日の一日

 いつもは「配達日誌」をA4判の1頁以内に収まるように書いているが(ただし、字の大きさをやや小さい9ポイントにしている)、今日6月4日(木)はあまりに盛り沢山でその量に収まりそうにない。たまにはこんな企画(記事)もあっていいかなと思い、今日の一日のさまざまな出会いを字数を気にせずに書き出してみることにした。

志久見からスタート
 7時前に志久見集落での配達からスタート。志久見→柳在家→長瀬と進んだ(切欠は2日に配達済)。
 時間が早いせいもあって、家から出ている人は少なく、この段階では人と話すことはほとんどなし。ただ花の写真などは結構撮った。そのうちの1枚はノボリフジ。



 この場所のノボリフジを撮影したのには訳がある。5月7日午前、志久見での配達中、畑のそばで休んでおられる桑原健さんと石澤チヱさんに出会った。その時、桑原さんが指差して「あれ、これからノボリフジが花をつけるよ」と言われたのだ。その時の写真がつぎのもの。



 各所でノボリフジが咲き始めた今日この頃。5月7日の話を記憶していて、その場でカメラを構えた次第。
 林秀庵では睡蓮があるところをチェック。つぼみが見られ、次回訪れる頃には花が見られそう。

白色のニワフジ
 この1週間くらい、ニワフジが咲いているのを目にすることが多くなった。ただ、写真を撮りたいなと思うほどに鮮やかなものには出会っていない。
 ところが、柳在家でニワフジにそっくりの白色の花を見かけた。念のため写真を撮った。



 夜、Webで調べると「白色種もある」とのこと。撮影は関沢一之進さん宅の玄関に通じる庭。
 同じ場所で、まったく初見の花も。他所では見たことがない。名前はまだ調べていない。



長瀬・中尾の水路のその後を見る
 長瀬での配達を終えた後、中尾の田んぼへ。ほとんどの田で田植えが終わっていた。



 キュウリ畑の世話をされていた斉藤正春さんに「ちょっと水路の様子を見てきますね」と声をかけて、水路沿いの道を進んだ。
 5月8日午後に赤津組の人がミニバックで作業に入ったが、機械が大きすぎて作業が中断となった箇所を見ることが目的。



 上写真が5月8日午前の様子。そして下写真が今日6月4日撮影。



 見事に工事がなされている。
 工事がされたところを進むと、5月10日の普請の時に見られた短いトンネル(下1枚目写真)が見当たらず、いきなり約40mの長い方のトンネルの入り口が見えた(下2枚目写真)。短いトンネルはどのように工事されたのか、関係者に尋ねてみなければならない。




 
前子集落(津南町)
 5月22日に中尾から道がつながっている前子という集落を訪れたことは当時の「日誌」に書いたが、その時は数枚の写真を撮ったのみで、住んでいる人を訪ねることはしなかった。
 今日の目的はただ一人、前子で暮らしているという坪野出身の人に会うこと。
 家屋は空き家を含めて数戸があるので、「どの家を訪ねればよいか?」と思っていたが、車で着くといきなり、家の前に出ている女性に出会った。
 いろいろ話していくうちに、山本梅子さんというお名前を聞くことができた。77歳とのこと。

 元々は7軒の家があったとのこと。もう取り壊されてしまった家が多いが、梅子さんのお宅の他に1軒の住家と作業所が残っている。その家の人は津南町の正面にお住まいで、時々、前子に来られ、家の前の畑を作っている。
 昭和57(1982)年から冬期の間、前子の人たちは津南町の市街地の住宅で暮らすようになり、それを契機に前子から出る家がいっきに増え、梅子さん宅だけが残ったそうだ。ご主人は早くに他界され、結婚して前子を出た娘さんも病死された。それでも、梅子さんは春が来ると前子に戻り、つぎの冬まで野菜を作ったりしながら前子で暮らしておられる。足の具合が悪く、以前は乗っていたバイクもやめたので、外に出ることはほとんどないという。知り合いから「よくまあ、一人で暮らしているなあ。何をしているの?」と言われるそうだが、「町にいてもすることがないからね」と明るく笑い飛ばされる。
 「病院や買い物はどうするのですか?」と尋ねると、「森宮交通に電話すれば、下の橋のところまで迎えに来てくれると思うんだが」とのご返事。
 どうも、町(行政)も「前子で暮らす必要はない」というスタンスのようだ。
 
 前子は山肌にはりつくような形の集落。いまは田んぼはやっていないが、田んぼをやっていた頃は、刈り取った稲を背に負って、担ぎ上げた。梅子さんはやはり山の中の集落である坪野の出身なので、そういう作業は苦にならなかったという。前子に嫁に行き、数年で家族全員で前子を出たという人と話したことがあるが、「平地生まれの私には何でも背に負わなければならない暮らしは耐えられなかった」と言っておられた。
 
 中尾から一本道でつながっているので、昔は長瀬の人たちとの交流が盛んだったようだ。
 「正春さんはほぼ毎日、中尾で農作業されていますよ」と私が言うと、「じゃあ、たまには正春さんのところへ遊びに行くか」と話されていた。
 私は坪野出身で、長瀬の隣人ともいうべき梅子さんを「栄村復興への歩み」の毎号配達の対象に加えることにした。
(なお、梅子さんとは初めての出会いなので、会話を大事にし、写真はいっさい撮らなかった)

これ、タンポポ?
 前子から中尾を経て、長瀬の県道に戻り、天代、坪野へ。



 天代で家の周りの草むしりをされている斉藤一子さんに出会い、「おかあさん、精が出るね。この花(一子さんの手前に見えるもの)、名前、ご存じ?」と声をかけると、「タンポポの一種らしいよ」とのお答え。
 その花をクローズアップしたのが次の写真。





 Webで調べてみたが、どうも「コウリンタンポポ」(別名「エフデギク」)というものではないかと思われる。帰化植物で北海道に多いそうだ。ものすごく繁殖力が旺盛らしい。一子さんも「誰かが持ってきて植えたんだが、どんどん増えちゃって」と言っておられた。
 私たちがふつう「タンポポ」と認識しているものは「キク科・タンポポ亜科・タンポポ属」の仲間を指すが、「タンポポ亜科」に分類される草花の中にタンポポに似ていることから「〜タンポポ」と呼ばれるものが結構あるらしい。ヒエラシウムというのが正式名称だそうだ。

土合橋で新しい橋づくり
 北野天満温泉の手前の土合橋。雪が消えた頃から、新しい橋をつくるための準備工事が始まっていたが、工事の全体像がかなり見えてきたので、車を停めて撮影。



 上は北野側の橋台つくりの基礎工事。
 つぎの写真のとおり、北野天満温泉への入り口の小山が切られている。天代〜土合橋〜北野間の道のくねくねが少し解消されるようだ。



“どうどう”で斉藤寿美さんが田植え
 坪野の共同駐車場よりも手前で天代川側にブナデマリが咲いているのが目に入り、車を降りて草の中を木に近づいた。この時期なのにまだきれいに咲いている。その近辺を複数のチョウが舞っていて、カメラに収めることができた。



 飛んでいる姿も1枚。
 
 
  
 骨粗しょう症がひどく進行し、雪をかまうことができないため、今冬を迎える前に北長野に新居をかまえられた斉藤広友さんと春になってから出会うことがよくある。今日も出会った。家の横の畑を耕されていた。坪野への愛着は強いと感じられる。こういうケースは他にもみられるもので、どう対応していくべきか。考えることが必要。
 
 8軒の配達を終え、山道を上がって野口に抜けることにした。その山道沿いの田んぼが今年はどの程度田植えされているのかを見ておきたかった。
 道路進行方向右手の田んぼの様子は車からもよく見えるが、左手は土地が高くなっていて車からは様子が見えない。
 かなり進んだところで、右手に上っていく作業道の途中にトラクターが見えた。トラクターは無人だったが、「誰か、このあたりで農作業されているな」と思い、左折して作業道を上がった。
 
 
 
 初めて見る田んぼ。誰かが田植えをされている。手前には開拓記念碑が立っている。


高橋彦芳氏の書らしい

 もう少し近づくと、田植えをされているのは女性だとわかった。田植え中の田んぼの端に苗箱が積まれているところまで行き、田植え機が戻ってくるのを待つ。どうやら斉藤寿美さんのようだ。



「『どこのカメラマン? 〇〇先生なんかだったら撮られてもいいけど、他は嫌だ』と思っていたら、松尾さんじゃないですか」
 いきなり撮影し、どうも失礼しました。

 「女の人が田植え機を動かしているのは初めて見ました」
 「いや、おられますよ。長瀬の〇〇さんなんか、もっとたくさんやっておられるわ」
 「このあたりの田んぼは全部、一三さん(寿美さんの夫)ではなく、寿美さんがやっておられるの?」
 「はい。この周りは以前、ズッキーニをやっていたの。この田んぼの横の畑はいま何も植えていないけれど、耕すだけは耕しているのよ。定年になったら、なにか育てようと思って」
 「このあたりは、何か、地籍名があるんですか?」
 「“どうどう”っていいます」
 「正々堂々の堂々ですか?」
 「いえ、平仮名で」
 「水路は?」
 「坪野は下堰と上堰があるでしょう。上堰から。でも、上堰のどこから引いているのかは知らない。そこまでは行ったことがないので」
 
 こんな会話があった。
 水路の様子を少し見たが、準備なしに山の中に分け入っていくのは憚(はばか)られ、少しみただけで引き返した。



 この先を進んでいくと、棚田になっているところの上を通って、きっと「百番さま」のところに出るのではないかと思う。また、この水路の余り水は下に落とされているが、原向の方に向かう下堰よりも低い田んぼに入るのだと思われる。調べてみることがまた一つ増えた。
 
 
幸一さんのキュウリ畑へ
 野口を経て、斉藤幸一さんの「戸合(とあい)トド」のキュウリ畑へ。
 これまで「原向のキュウリ畑」と書いてきたが、この場所を「原向」と呼ぶのはちょっと違うような気がして、今日、幸一さんに地籍名を尋ねた。
 到着すると、幸一さんの姿は見えず、奥さんが何かの間引きをされていた。後で伺うと野沢菜。冬前の野沢菜とは違って、浅漬け風にするものだ。間引きしたものも菜っ葉として美味しく食べられる。



 行灯外しは5日頃と聞いていたが、すでに3分の1強が外されていた。



 間もなく、幸一さんが農協の指導員と共に姿を見せられた。消毒の実施状況などを報告されていた。
 そのやりとりが終わってから、幸一さんに少しお話を聞いた。

 「行灯を外されるのは明日あたりかなと思っていたのですが」
 「昨日、始めた。今日もやりたいのだが、風が強くてダメだ」
 「行灯を外して、茎を支柱に結び付けられますよね。この作業、何と言うのですか」
 「“行灯はずし”かな」
 「支柱に結びつけるの、どんなふうにされるのか。見せてもらえますか」

 面倒なお願いを嫌な顔ひとつせずに、やって見せて下さった。「これが面倒なんで」。幸一さんが手に持っておられる道具を使い、キュウリの茎と支柱をテープで括りつける。





 行灯をかけるとき、4隅に棒を立てるが、そのうちの1本が他の3本よりもやや太い。それが茎を結びつける支柱となる。
 
 幸一さんの畑では、今年、ふつうのキュウリの他に「漬け物キュウリ」という品種を少し植えられている。「出荷されるのですか?」と尋ねると、「うん、これは『かたくり』、ほら、直売所に出すつもり。俺も組合に入ったから」と。
 直売所のことを考える人が着実に増えているように思う。

 この畑に軽トラで入ると、出る時、切り返しがやっかいなのだが、幸一さんから「まっすぐ出ていけるよ」と言われ、昨夏、一度、まっすぐに出たことがある。今日もその道を辿ったが、草が伸びていて、どこが道なのか、わからない。1ヶ月ほど前はコゴミがいっぱい出ていたところを突っ切って行く。


 
有機栽培の畑でハーブの香り
 戸合トドを出た後は、野口〜天地〜大久保を走り抜けて、妹木(いもとぎ)へ。
 頼之さんの加工用トマトがもう花をつけ始めたと聞いていたので、その写真を撮ろうと思っていたのだが、山本保子さんが畑に出ておられたので、少し立ち話。
 完全有機栽培をやっておられるとお聞きしていたが、堆肥はキノコ栽培の菌床を使っておられるそうだ。いろんな話をしばし聞かせていただいて、最後にハーブを紹介していただいた。





 上はミント、下はカモミールというハーブ。
 ハーブの香りを嗅ぐには、ハーブ全体を風をそよがせるように揺すると香りがパーッと広がる。ミントの香りは多くの人がご存じだろうが、カモミールは甘〜い香りが漂う。
 畑にハーブを植えると有機栽培にいいということを聞いたことがあるが、多様なハーブを栽培すると、野菜料理等のレシピも広がると思う。
 時々、畑の様子を拝見させていただきたいとお願いして、頼之さんのトマト畑へ。

トマトの成長



 たしかに花をつけている。
 このあたりの畑は苗の定植が5月12日頃。その頃の苗の大きさは下の写真。ずいぶんと大きく成長したものだ。



 一昨日、頼之さんとお話したが、昨年紹介したことがあるマルチの裾を広げる作業はまだこれからとのこと。
 
貝廻坂改良工事の今年度分、工事の準備始まる
 ここ2回ばかり、貝廻坂を通ったとき、今年度に改良工事が行われる部分の路面に白色塗料で印がつけられているのを見た。今日はその写真を撮っておこうと思っていたところ、「測量実施中」の看板が立っていた。下1枚目写真は昨年に改良工事が行われたところ。この坂を上り、カーブを曲がるところからが今年度分。そのカーブのところで測量が行われていて、私が通過するとき、藤巻建設の顔馴染みの人が手を振ってくれた。





 この後、横倉で28軒を廻って昼休み。

野々海池へ
 小1時間の昼寝の後、思い立って野々海池に行くことにした。5月28日に行ってからちょうど1週間だが、「そろそろミズバショウが顔を出しているかな」ということが気になったからである。
 結論から先にいえば、ミズバショウ群生地はまだ雪の下。
 しかし、池の雪は思った以上に消えていた。先日、池面の雪上を歩いたところも、今日はもう下りると危険。



 上が今日4日の様子。ほぼ同じ地点で撮った下の28日の写真と見比べると、雪の消え方は歴然。



 まあ、この間、陽気がよかったので当然といえば当然。
 ただし、今日はキュウリ畑のところで書いたように風が強く、野々海は寒かった。あらかじめウインドブレーカーを着こんでいたが、里で言えば3月くらいの気温か。そして、雲が激しく動き、陽が遮られて、あまりいい写真は撮れず。池面に残った雪は風で流されたのか、余水吐・堤の方に集中していた。そんな中、写真ではあまり「いいな」とも思えないのだが、池に近づいた時に見えた様子が印象的だった。
 
 
  
 つぎの写真は池の対岸のブナの新緑が素敵だと思う。



 さらに、野々海でもう1枚、紹介しておきたいものがある。水番小屋の上で撮ったもの。ただ雪しか見えないものだが…。
 
 
  
 なぜ、この写真をわざわざ載せるのか。それはこの場所が次の1枚を撮ったのと同じ場所だからである。


 
 昨夏7月28日に撮影し、「涼しさを求めて蝶とトンボの世界へ」と題して紹介した写真である。
 季節によって、同じ場所がこんなにも顔を変えるのだ。
 
平滝の畑での出会い
 野々海から下りた後(午後5時頃)、まっすぐ家に帰ってやる用事はいっぱいあったのだが、平滝の千曲川沿いの田んぼ(6月3日の「栄村つれづれ歩き」で紹介)の全景、そして田んぼの水面が残照で輝く様子を撮りたくて、平滝集落の国道117より下のゾーンへむかった。
 車で少しうろついたが、結局、ゾーンの真ん中にある畑あたりが撮影ポイントに良さそうだと思い、下車。
 畑に二人のかあちゃんの姿が見えた。カメラをぶら下げて近づいたら、変なのが来たと思われるかもしれないと思いながら、畑に通じる道を下り始めると、二人のうちのお一人が手押し車を押しながら上がって来られた。



 お顔はよくよく覚えている人なのだが、お家の所在場所が浮かんでこない。「おかあさん、お家、どこでしたっけ?」と尋ねると、「ほら、あそこ」と正面を指さされる。「あっ、そうでしたね」。桜沢乃利子さんだ。
 「畑へ行く時は下りでいいんだが、帰りはずっと上り坂でねえ」と。手押し車には鍬が積まれている。高齢の人ほど、ズクがある。
 上写真の左上部に大きなふきの葉が見えるが、その畑にもう一人のおかあさんが残って作業されていた。



 ここからは、少し、このおかあさんとのやりとりのダイジェスト。
 
「こんにちは。おかあさん、何を結えているのですか?」
「赤カブだよ。花を咲かせて、種をとるんだ。木曽から嫁に来た人がいてね、その人からいただいた。もうその人は亡くなってしまったけれど」
「へえー。もうすぐにとれるんですか?」
「いや、花が咲き終わって、枯れないと種はとれないよ」
「おかあさん、お家はどこですか?」
「あそこだよ」(指さす)
「えっ! じゃあ、縄綯いの名人じゃないですか」
「いやあ」
「雪上運動会の時、おかあさんの縄綯いの手元をいっぱい写真に撮らせてもらいましたよ」









「私らは子どもの時、学校で『縄を綯って供出しろ』と言われて、いっぱい綯ったもんだ」
「えっ? 国に供出するの?」
「そう。何に使うのだかわからなかったけど
ね」(戦時中の話。敗戦時、小学校3年生だったそうだ)
「ところで、おかあさんはどこから嫁に来たの?」
「青倉」
「えっ、青倉のどこから?」
「友太郎の家だよ」
「そうか、友さんの姉妹が平滝におられるって聞いていたけど、その人なんだ。友さんの姉さん? それとも妹さん?」
「友太郎のすぐ下」
「じゃあ、マサさんの姉さん?」
「いや、おれはマサと双子なのさ」
「あっ、聞いたことがある」

 こんな調子で、なんだかんだと15分くらい話し込んだ。作業の手を休めさせて申し訳ない。それにしても、なんの不審顔もせず、よくぞ色々と話して下さるものだと感心していたが、会話の最後のほうで、「あなたもよくやるね。毎日、あちこちと走り回って」と言って下さった。私が何者か、先刻ご承知だったわけだ。
 一昨年の暮れ、自分で配達するようになって頃、玄関先で出会った時は怪訝な表情をされたこともあったと記憶しているが、1年半の積み上げは大きいようだ。
 このおかあさんのお名前は油科ハルさん。雪上運動会の写真を整理したとき、平滝の人にお名前を教えていただいた。

 この後、フランセーズ悠さかえの前の畑を耕されていたおかあさんにも声をかけた。道路建設に伴い、遺跡発掘調査が行われる場所のすぐそば。このおかあさんも私のことを知っていてくださった。そして、こんな会話も。
「おかあさんは、どこの集落の生まれ?」
「ここだよ」
「じゃあ、婿とりかい?」
「いや、近所同士さ。私は平滝の空しか知らないよ。外に出たことがない」
 高齢になって足がないので、他集落の出来事などがわからないということだけではないのだ。たしかに自然に寄り添いながら暮らしていくには、「グローバル化」なんて言って、忙しくあちこちを駆け回る必要もない。ただ、“むら”(=現在の集落)が自己完結型の暮らしが営めなくなり、少なくとも村(=栄村)という単位で暮らしを営んでいかなければならないいま、「村の新聞」は必要不可欠になっているのだと強く感じた。


午後6時3分撮影

 家に帰り着き、隣組の配り物をし、職場からの帰宅後に畦草刈りをされていた木村富美代さんとちょっと立ち話をして、温泉へ。
 
 以上が6月4日の全行動記録。長くなった。今日はいろんな人と話し込むことがとくに多い一日だったが、私の行動の様子がかなり伝えられたかと思う。

 

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