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栄村復興への歩み
2011年3月に震度6強の地震で被災した長野県栄村で暮らす松尾真のレポートを更新しています。

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年末のご挨拶

  • -
  • 2012.12.30 Sunday
 いつも「栄村復興への歩み」をお読みいただき、有難うございます。
 震災から2年目の2012年もあっという間に過ぎ、もうあと2日を残すばかりとなりました。

* 雪の状況
 栄村の冬といえば雪ですが、クリスマス寒波、そして26日の寒波、それぞれ大変でした。しかし、今冬はいまのところ、大雪と大雪の間に晴れる日が入ってくれるおかげで雪を片づける作業ができ、昨冬の1月下旬〜2月初旬のようなひどい状況ではありません。大晦日から元旦にかけて雪の予報が出ているのが気がかりですが、いまのところ、栄村の普通の冬だといっていいのではないかと思います。参考までに29日朝のJR飯山線森宮野原駅の様子を撮影したものをご紹介しておきます。




* 本格的な復興の年
 1週間ほど前、村内の全世帯に「震災復興計画」の小冊子が配布されました。
 復興計画策定委員会がスタートさえしていなかった昨年末と比べれば、この1年、復興にむかって大きな前進があったといえます。「復興計画」は、村民意向調査で示された村民の思いを真正面からうけとめ、真剣な議論を通して、非常によく考え抜かれた、いい計画ができたと思います。
 もとより「復興計画」ができればもう大丈夫ということではありません。いや、もっと率直にいえば、せっかくの復興計画ができたにもかかわらず、ここでアクセルを踏んで、勢いをもって復興にむかってグイグイ進んで行くというふうにはなってはいません。全国から大なるご支援をいただいている栄村として、村の真価がいま厳しく問われていると思います。
 2013年こそ、栄村を「中山間地域再生のモデル」とする震災復興を実現すると誓った原点に立ち返って、復興にむかって躍動感ある動きを実現していかなければならないと思います。
 栄村をご支援くださる皆さま方がいい年をお迎えになりますようご祈念するとともに、なお一層の復興支援をお願いし、年末のご挨拶とします。
(なお、年始はブログ管理・制作の都合上、第2週から「復興への歩み」を発行します)


栄村復興への歩みNo.184 (通算第218号) 12月21日

クローズアップ・飯山線No.2

 No.182で書きました「クローズアップ・飯山線」に色んな人から反響がありました。「第2弾、第3弾を期待する」という声もありました。
 そこで、19日、森宮野原〜長野駅間を往復しました。以下、主に村外の人たちにむけてのレポートです。


* 降雪で外の景色は見づらい
 私は京都から栄村に通っていた頃(もう7年前のことになります)、飯山線の雪景色を何度も楽しんだものですが、雪景色を楽しめたのは降雪と降雪の合間の天気のいい時だったのですね。19日は、前日からの雪が降り続け、列車の窓から外はほとんど見えませんでした。
 でも、収穫はありました。
 栄村を含む北信州の雪をめぐって、「一里一尺」という言葉があります。北へ一里(約4km)進むごとに積雪量が一尺(30cm)増えるという意味です。
 そこで、長野駅12:32発越後川口行に乗車し、各駅毎にホーム上の積雪の様子を撮影し、「一里一尺」を証明してみようと考えました。乗車時に運転士さんにお話しして、駅毎に降車して写真を撮ることを許可していただきました。


長野への往復の5時間の間に車に積もった雪の量

 19日の時点では、まだ冬の初期ですので、栄村の積雪量もまだ1m以下という状況ですので、「一里一尺」という程の違いはありませんが、まったく雪がない長野駅から栄村に向かうにしたがって、積雪量が急速に増えていく様子を記録できました。それを紹介したいと思います。
 
* 十日町方面から来た列車と長野方面から来た列車の違い
 その前に2枚の写真を見比べてください。

 
 いずれも長野に行く際の乗り換え駅・戸狩野沢温泉駅で同時刻に撮ったものです。左は私が栄村から乗って来た車両。右は長野〜戸狩野沢温泉間を往復している列車。この違いで戸狩野沢温泉駅あたりを境にして、雪国と非雪国の違いがあることをおわかりいただけるのではないかと思います。


* 長野市は快晴でした。
 
 左は午前10時55分に撮影した長野駅前の様子。快晴で、雪などまったく見当たりません。
 私は村から履いていった雪長靴で駅周辺をぶらつきましたが、他人の目には「変なおっさん」に見えたことでしょうね。
 
 長野駅12時32分初の越後川口行2両編成に乗り、北長野、三才、豊野、信濃浅野と進みましたが、ホームに雪などまったくありません。車窓から遠くに見える志賀高原連峰の白い山々がきれいでした。右写真は信濃浅野〜立ヶ花間で運転台横から撮影したものです。


* 立ヶ花を越えたあたりからチラチラ、雪が残っていました
 立ヶ花駅を越えてから、線路脇の日影などにチラチラと残雪が見えました。前夜か早朝に降ったものでしょう。
 上今井(かみいまい)、替(かえ)佐(さ)、蓮(はちす)、飯山、北飯山、信濃(しなの)平(たいら)の各駅のホームの様子を順に紹介します。
 
 
上今井駅                替佐駅
 

 
蓮駅                  飯山駅

 
北飯山駅                信濃平駅
 

* 戸狩野沢温泉駅〜桑名川駅
 長野駅から乗った列車は越後川口行ですので、戸狩野沢温泉駅での乗り換えの必要はありませんでした。戸狩野沢温泉駅に着いたところ、雪が降っていました。この日昼間の雪はこのあたりが境目だったのですね。以下、戸狩野沢温泉、上境(かみさかい)、上桑(かみくわ)名川(ながわ)、桑名川の各駅のホームの様子です。
 
 
左)戸狩野沢温泉駅
右)上境駅(下車した高校生がホームから道路へ下りていく様子)


 
左)上桑名川駅
右)桑名川駅(ホームは屋根があり、雪の様子が示せません。引き込み線に停まっていた除雪車の様子です)


 上境あたりから新雪の積雪が本格化し始めますね。11月27日、栄村に今冬初めての本格的な降雪があった日も、私は飯山線に乗っていたのですが、その時も上境で突然、銀世界になりました。


* 西大滝駅〜森宮野原駅

 さて、次の駅・西大滝が栄村に入る直前の駅です。撮影のためにホームに着地した瞬間、雪の中に長靴(もちろん雪長靴です)がぐさっと入り、「冷たい!」と感じたのは西大滝が初めてでした。
 

 
西大滝駅                信濃白鳥駅

 
平滝駅                 横倉駅
 

 

                     森宮野原駅

 まだ冬の始まり期で、駅のホームに雪の壁ができるような状況ではありませんが、栄村に入るといっきに雪の量が増えることはおわかりいただけたのではないでしょうか。
 ところで、西大滝駅、森宮野原駅で高校生が写っていますが、いずれも長靴ではなく短靴です。飯山市内の高校に通う場合、飯山は積雪が少ないので、雪長靴を履いていると「格好悪い」というので、通学には短靴を履くのだそうです。


昨年1月、飯山線の旅を堪能された木村先生のエッセーの紹介


 信州大学の木村和弘先生がNo.182の「クローズアップ・飯山線」をお読みくださって、「今日の復興の歩みを読みながら、1月にはこんな文章も書いたのだ、こんなこともみんなと話し合ったな、そんなことを思っていました」とメールをくださり、今年1月にお書きになったエッセーを送ってくださいました。ご紹介させていただきます。
  
飯山線雪景色ツアーのお誘い
― 雪の壁をいく飯山線。今、栄村の積雪は3.5m ―

窓に迫る雪の壁を見たことがありますか。車窓に雪の壁が迫ります。
今しか見られません。そして、自動車では見られない光景が長野から続きます。
列車でしか見られない光景。千曲川の雪景色が待っています。
栄村は、旧国鉄で日本最高積雪深7.85mを記録した村。森宮野原駅に標柱が立つ。
こんな旅しませんか。豪雪の栄村へ。

 寒風の中を伊那市駅発、延々と接続駅の待ち合わせ、岡谷駅で30分、松本駅で25分、長野駅での乗換えに24分、そして飯山線森宮野原駅まで5時間39分の旅。いかがですか。
 途中、松本から長野までは篠ノ井線、かつては難所・25パーミルの冠着トンネル、スイッチバックの姨捨駅、そして姨捨棚田の景観を見ながら長野に至る。風光明媚な旅。

 長野駅は、変則的なホーム。3・4番線の同一ホームを中央で分断して、3番線、4番線が存在。飯山線は4番線から発車する。連絡通路の下には、立ち食いそば屋のいい香り。乗車前の一杯もうれしいもの。
 かつては、なかじま会館の駅弁がよかったのだが、季節の弁当とワンカップ数本をもって、森宮野原までの旅。今はないのが残念だ。
 それでも、ボックスシートなので、ワンカップには最適だ。
 JR飯山線は、長野駅から新潟県長岡市・越後川口までの107.5km、31駅のローカル線。
 正式には豊野町からの29駅96.7km。
 15時04分長野発の列車は、豊野駅で信越線と別れ、いよいよ飯山線である。
 豊野まで長野の平坦地をすぎて、千曲川が現れてくるのが旧豊田村(2005年に中野市と合併)、立ヶ花駅を過ぎると景色が一変する。だんだん雪が深くなる。車窓からは右手に千曲川が流れる。いよいよ飯山市だ。屋根の雪も深く、雪下ろしの姿も見られよう。
「1里、1尺」市街から離れると雪が深くなると云われる豪雪地帯。
 さあ、これからが飯山線の真骨頂。雪は一段と深い。
 戸狩野沢温泉駅、ここで4両編成は切り離されて2両に。いよいよ雪の本場だ。次は上桑名川、かつては千曲川の渡しが奥信濃の冬の風物詩であった。東電の西大滝ダムを間近に見ながら、「このダムと、下流のJR宮中ダムによって、鮭の遡上が止められた」そんな思いをはせながら栄村に入る。駅に入るたびに3mの雪の壁が眼前に迫る。3月12日の長野県北部地震に被害を受けた横倉駅、さらに線路が宙づりになった区間を経て、16時51分列車は森宮野原駅に到着。雪の中に2本の線路が黒く光る。雪の中の通路を通って改札へ。かつてはキマロキ編成(注)やロキキロマキの特別編成もあったという除雪体制は、ディーゼル車に変わった。構内を除雪車が雪を吹き飛ばす姿を見ることもできよう。

森宮野原駅は栄村の中心、貨物扱いもあった中心駅だ。駅前には日通支店もあった駅だが、今は委託駅だ。駅から、今夜の宿・吉楽まであと50mだ。雪の後は、いよいよ熱燗だ。
                           (木村)

※(文中の写真2点は12月19日、松尾が撮影したものです)
 …………………………………………………………………………………………………………
(注)「キマロキ編成」とは、機関車(キ)、線路沿いの雪壁を崩し、雪を線路上にかき集めるマックレー車(マ)、そのかき集められた雪を遠方に飛ばすロータリー車(ロ)、最後尾の機関車(キ)の4両から成る除雪ユニットのこと(松尾記)

…………………………………………………………………………………………………………

震災復興(=山村再生)と旅(観光)

 No.182、そして今回と2度にわたって飯山線をクローズアップし、飯山線の旅を推奨していますが、これは栄村の震災復興(=山村再生)にとって観光が非常に重要な位置を占めると考えるからです。
 栄村の多くの人たちが復旧にとどまらない復興が必要だと思っています。しかし、「では、どうやったら復興を実現できるのか」、率直に言って暗中模索だというのが正直なところだといえます。「復興計画に基本方針が書かれているではないか」と言う方もおられるかもしれませんが、復興計画はあくまでも基本計画であって、具体的な事業計画ではありません。しかし、いまや、その具体的な事業計画→具体的な事業が求められています。
 「復興計画」では「地域資源を活かす産業振興」を謳(うた)っています。「クローズアップ・飯山線」をお読みいただければ、飯山線こそ「地域資源」の最たるものの1つだということは明白だといえます。
 どうやってこの地域資源を活かしていくか。私は村外の人たち(とくに都市部在住の人たち)と村民のコラボレーション(協力、協同)がそれを可能にするのだと思います。震災直後には、救援や応急復旧のために多くのボランティアの人たちが村にやって来て下さり、栄村民との協力・協同が実現されました。復興段階では、自らも楽しむために旅で人びとが訪れて下さることと、村民がそれを村らしいお茶のみや案内、ごっつぉで受け入れること、その協同が村の資源を活かし、それによって、村人に栄村の大いなる可能性を発見させ、村を活性化=再生していくことになっていきます。
 もっと具体的にいえば、震災直後のボランティア登録のように、「私、飯山線の旅に興味・関心あります」というような登録をメールでしていただき、当方ではそれを受けて、実際に飯山線に臨時貸切列車を走らせる態勢をつくっていく。そういうコラボレーションができれば最高だと思うのです。いかがでしょうか。是非、ご検討ください。


<後記>

飯山線の話ばかりで面喰わられたかもしれませんが、私は飯山線、とくに冬の飯山線にこだわりたいと思っています。こういうことに執念を燃やし、一歩一歩、夢を現実化させていくことが復興ではないかという気持ちを強く持っています。みなさまのご意見をお聞かせいただけると幸いです。


栄村復興への歩みNo.183 (通算第217号) 12月20日

  • -
  • 2012.12.21 Friday
スキー場、22日オープンへスタンバイ

 栄村は18日から雪が降り続き、昨日19日は平地でも1日で優に5〜60センチは積もったでしょう。
 さかえ倶楽部スキー場は22日(土)がオープン日ですが、雪は十分です。圧雪作業も行われ、スキー場関係者は、みなさんのご来場を待ち受けてスタンバイしています。
 復興への力となるためにも、是非、さかえ倶楽部スキー場へお越しください。


さかえ倶楽部スキー場ゲレンデ(15日撮影)


活躍を始めている新鋭の圧雪車

集落のルーツ(歴史)を知り、復興への力を湧き出させる

 今次震災の復旧・復興において、小滝集落の熱心な取り組み、元気さはみなさんがすでによくご存知のことと思います。
 思慮浅く、口の悪い人は、「最初は張り切ってやるけども、しばらくしたらダメになる。まあ、頑張ってくれや」などと言ったりするそうですが、小滝の取り組みはそんな底の浅いものだとは思いません。
 小滝の熱心な取り組み、元気さの背景(根っ子)には、しっかりとした3つの要因があるといえます。

 1つは、集落の結束の強さです。
 その特徴がよく出ているのが新年会や祭りの取り組み。帰省者も含め、集落の全員が顔を揃え、和気あいあい、飲んだり、しゃべったりします。まるで「小滝一家」という感じです。

 2つは、数年前からコツコツと古道・志久見街道の整備作業を続けてきたことです。
 小滝は高齢化が進み、堰普請だけでも大変なのに、それに加えて古道整備にまで取り組んできました。そういう努力の積み重ねがあったからこそ、震災からわずか半年強の時点(昨年10月30日)で50名を超える人たちを小滝に呼び寄せ、古道歩きのむらたびを成功させ、今年も11月4日に再び古道歩きツアーを成功させたのです。
 ここで1つ注目しておくべきは、小滝がうまく「外の風」を取り込んでいることです。「外の風」とは、集落外部の人が持ち込む力のことです。その1つの典型として「田舎で働き隊」の「ミクロさん」こと河原崎彩子さんが描いた小滝集落マップを紹介しておきましょう(下部に掲載)。この絵地図は小滝の自慢になっていて、小滝公民館を訪れた人が必ず注目します。

 3つは、集落の歴史を学んでいることです。
 こんな話を聞きました。地震で田んぼがひどく壊れ、離村者が出て空いた田んぼも大量に生まれ、「もうこんな田んぼ、やめようか」という話が出たとき、「去年、小滝堰のことを書いた歴史文書について教わった。ご先祖があんなに苦労して築いてきた田んぼを俺たちが放棄することはできない。なんとしてもやろう」という声が若者から上がったというのです。
 この若者が言った「歴史文書について教わった」というのは、地震の前年(2010年)の9月に歴史研究者・白水智さんのグループに小滝堰について書かれた島田家文書を解説してもらった、小滝公民館での学習会のことを指しています。

小滝堰に関する島田家文書
 そこで、今日は、その時に教わった文書の中の1点について、原文、読み下し文、現代語訳を紹介したいと思います。
 まず、原文は以下のようなものです。


 元禄8年=1695年に小滝の住人6名が連名で箕作村の庄屋・島田三左衛門に提出した文書です。
 現代に生きる私たちは、このままではなかなか読めませんので、白水グループの鈴木努さんに、まず、読み方を教わりました。その結果が次頁の「読み下し文」です。


 これで、ひとまず読めたことになりますが、意味がよくわからない箇所がたくさんあります。そこで、現代語訳すると、以下のようになります。

【現代語訳】
一札を指し上げます

 このたび、松平様(注:飯山藩の殿様)が小滝に新田を拓くとよいと計画され、大久保の奥山から堰の工事をなされることを(島田様(注:庄屋)から)お聞かせいただき、その趣旨を理解いたしました。この堰が出来ましたならば、永代にわたって小滝の助けになるものと有難く存じあげます。小滝は暮らしが行き詰っており、いずれお百姓を続けることが困難になると思っていましたところ、堰が出来ましたならば水がたくさん確保でき、新田を切り拓いてお百姓を勤めることができると、かたじけなく存じ奉ります。
 然るうえは、新田を切り開く場所を六つに分け、五つは小滝の者で分け、残りの一か所は島田様のお取り分とし、その場所は島田様の思い通りにお取りください。田地を切り開く時は、島田様のお指図をうけて、切り開きます。今後、この新田の件についていっさいこの約束に反することを申しません。後日のため、一札指し上げます。
 これで意味もおわかりいただけたと思います。
 この文章の読解上、1つのポイントがあります。それは、この小滝堰をつくり、新田を開発するという計画が誰から出たのかということです。
 原文の「堰御普請被遊候由被聞」という箇所の敬語の使われ方です。島田氏が小滝の人たちにむかって「ご普請なされることを話して聞かせた」ということですので、島田氏が普請の計画者にむかって敬語を使っていることになります。つまり、普請計画者は庄屋の島田氏の上に立つ者=藩主(松平氏)だということがわかるという次第です。
 江戸時代の歴史を学ぶとき、領主や代官というものは百姓から搾り取れるだけ搾り取った悪者として描かれることがしばしばありますが、年貢を確保するためにも、ただ搾り取るだけでなく、新田開発、そのための堰建設などに力を入れたのです。もちろん、その背景には小滝−箕作村の強い働きかけがあってのことです。
 堰を開く工事は小滝の人たちが総出で担いました。「大久保の奥山」から小滝まで、直線距離でも4kmはあります。それが山や谷をぬいながら、くねくねと曲がったりしながら勾配をつけてくるのですから、水路の総延長は10kmをくだりません(7頁の地図参照)。
 その水路を切り開いた結果、いま、小滝の千曲川沿いに見られる田んぼがはじめて確保されたのです(現在の田んぼは圃場整備されたもので、元禄当時はもっと小さな田んぼの集合体だったのですが)。


歴史を学ぶと、どうして力が湧き出てくるのか
 このような歴史を学ぶと、なにか力が湧き出てくるものです。
 なぜでしょうか。
 私たちは、一人で生きているわけではありません。いま、集落で暮らしている者だけで生きているわけでもありません。震災直後にはたくさんのボランティアの人たちがやって来て、援けてくださいました。これは、「いま」「現在」という時点での〈人と人の(無限)の関係〉を示しています。私たちは自分だけで生きているのでもなく、経済(カネ)の力だけで生きているのでもありません。他者と共に生き、他者によって生かされている存在なのです。
 同時に、「いま」「現在」の人と人の関係だけで生きているのでもありません。過去、すなわち先祖の努力があってこそ、今日の私たちがあるということです。いまの人とむかし(過去)の人の間の〈人と人の関係〉です。
 さらに、自然との関係があります。私たちが平素はあまり出入りしない大久保の奥山が育む水が何百年もの間、変わることなく流れ下り続けていることが、いまの私たちを支えているのです。
 こういう現在から過去にまで遡る〈人と人の関係〉、さらに〈人と自然の関係〉が私たちを生かし、生きる力を与えてくれるのです。しかし、こうした関係性は現代の都市にあってはほとんど見えなくなっているものです。それが小滝、そして栄村では目に見え、実感できるのです。
 ですから、多くの都会の人が“癒し”を求めて古道歩きのむらたびにやって来るのだといえるでしょう。
 
 私たちの、集落の、村のルーツ(歴史)を遡る中から、私たちのむらにしかないもの(=地域資源)を見つけ出していけば、それが私たちを元気にし、震災復興=村の再生につながっていくのだと確信できるのではないでしょうか。
 小滝の実践はそのことを示しています。そして、どの集落にも、同じような取り組みが可能だと思います。白水さんたちが震災からレスキューしてくれた(救い出してくれた)歴史文書や民具を活かしたむらづくりを是非、進めていきたいものです。
(なお、古文書の読解は私の力に余るものですが、白水さんのグループのお力をお借りして、今回につづく文書も公開していきたいと考えています。)


※クリックで拡大

左下の赤丸が小滝堰の出発点(かけ口)、小滝集落は中央上の赤丸。

建設進む中条橋

 中条橋では橋の新設工事が進められていますが、驚くほどのスピードで進んでいるように思います。■日現在の様子をご覧ください。


橋脚の建設がどんどん進んでいます。


青倉側の橋脚だと思われるもの。上写真の手前に見えるものです。

工事は年内26日まで行われ、積雪量が多くなる1、2月は休んで3月から再開されるとのことです。

<後記>

  • -
  • 2012.12.21 Friday
 「ローマ法王にお米を送った」という話をご存じでしょうか。石川県羽咋(はくい)市の神子(みこ)原(はら)地区という「限界集落」です。最近、本を読んで復興へのヒントがあると思い、18日に訪れてきました。近々、報告をします。
 飯山線の記事に関心を寄せて下さる方がたくさんおられましたので、雪の降る中、19日、森宮野原〜長野間を飯山線で往復してきました。明日にでも報告の「歩み」を書きたいと思っています。
 (了)

栄村復興への歩みNo.182 (通算第216号) 12月14日

12・7地震に思う 
 7日夕、東北地方を中心に震度5弱の地震がありました。
私も机に向って座っていて、「なにか揺れているな」と感じ、TVのスイッチを入れると、もうすでに「津波警報!」の臨時ニュース番組をやっていました。
 揺れ方が3月11日に非常に似ているなと感じたのですが、後にいろんな人と話すと、同様の感想をお持ちの方が多かったですね。
気象庁などの発表ではM7クラスの余震がまだまだ続くとのことです。


* 防災対策マニュアルの見直し
 そこで思ったのが、栄村にもう一度、大きな地震が来たら、どうなるのか、どう対処するのか、ということです。

 10月に決まった「震災復興計画」では真っ先に「安全環境の確保」を掲(かか)げ、「新たな栄村地域防災計画の策定」を打ち出しています。
 しかし、残念なことに、今のところ、目に見える形での計画策定作業は進んでいないようです。
 たしかに、森・青倉での公民館の新設、個人住宅や復興村営住宅の新築などで安全環境が大きく改善されているのは確かです。
 でも、「一部損壊」と判定された家では、義援金の配分も充分にはなく、徹底的な修復を断念せざるをえなくなっているケースもたくさんあります。これらの対策をどうするのか、残された大きな課題です。
 

* 冬の昼間に発生したら、どうするのか?!
 3月12日の地震は村の誰もが家にいる午前3時59分に起こりました。
 だが、あの強さの地震が真昼間に起こったら、どうなるでしょうか?
 若い世代は勤めに出ていて、集落は高齢者ばかり。3月12日には単独では避難できなかった高齢者の方を救援した、消防団員が勤めに出ていて不在ということになります。

     月岡〜小滝間の雪崩による通行不能化 
      (3月12日、小滝・樋口さん提供)      
 また、昼間は多くの人が村内を車で移動しています。たとえば、坪野や小滝〜月岡間のように道路が雪崩・土砂崩れで通行不能になった箇所がたくさんあります。いま、昼間に震度6の地震が起こったら、通行中の車が雪崩に巻き込まれる危険性が大です。このあたりも新たな冬を迎えて、真剣に対策を考えなければならない点です。

 
* 記録集作成用写真募集の機会を活かそう
 いま、村では「3・12地震を後世に伝えるために」記録集をつくろうとしていて、みなさんがお持ちの写真の提供を呼びかけています。
 積極的にさまざまな写真を提供するとともに、この機会を「安全環境を見直す」チャンスとし、家族、そして集落や常会の単位で防災・避難計画を議論するようにしたらどうでしょうか。
 「明日では遅い、今日やろう」という気持ちで取り組みたいものです。