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栄村復興への歩み
2011年3月に震度6強の地震で被災した長野県栄村で暮らす松尾真のレポートを更新しています。

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栄村復興への歩みNo.209

  • -
  • 2014.01.27 Monday

時には外でランチを食べてみませんか
   ――頑張る人を応援したいと思います
 食の提供で頑張っている人がおられます。スキー場レストランの岡一(かず)太(た)さん、そして箕作の中国料理店「樓蘭」の渡辺俊男さんです。
 岡さん、渡辺さんの頑張りがお店の発展、そして村の賑やかさにつながるよう、応援したいと思います。そこで、是非、むらのみなさんに、時にはランチ(昼食)にスキー場レストラン、樓蘭にお出かけくださいますよう、お誘いいたします。


トマトつけ麺、アイスクリームのせホットケーキ――美味しいですよ


 上の写真はスキー場レストランで1日限定30食販売の新メニュー「トマトつけ麺」です。
 私は20日のお昼に食べに行きました。さらに25日、青倉のあるかあちゃんにお願いして、レストランに一緒に行っていただき、食べてもらいました。「あっさりしていて、美味しい」というのが、かあちゃんの感想。私も美味しいなと思いました。お薦めです。
 つけ汁には「さかえむらトマトジュース」が使われています。刻んだトマトも入れられています。私たちが食べていた間にも他に4食ほど出ていました。一人前700円でお手頃価格。いまは麺が1玉ですが、間もなく1.5玉にされるそうです。
 このメニューを考えだされたのは、今冬、スキー場レストランに振興公社から出向してきておられる岡一太さん。好青年です(といってもお子さんのおられるパパさんですが)。中華麺を扱うプロ・樓蘭さんにもアドバイスを受けて、工夫されたそうです。岡さんは他に、ホットケーキにアイスクリームをのせる新メニューを開発、また、ラーメンを500円に値下げ、子どもたちに人気のピザも700円に値下げなど、「お客さまに美味しいものを、そして少しでも安く食べていただきたい」ということで頑張っておられます。

 こういう工夫、頑張りがきっとスキー場を賑やかにしていくのだと思います。「スキー場はスキーをする人だけが行くところ」ではなく、気軽にランチを食べるところとして賑やかにしていきたいものです。


冬の樓蘭を賑やかにしましょう

 箕作の中国料理店「樓蘭」はいまや“栄村の顔”とも言ってよいくらい、多くの人に知られ、愛されています。
 その樓蘭さんですが、率直に言って冬場は苦戦しておられます。雪の多い栄村の冬、みなさん、夜に食事に出かけられることは少なくなります。ところが、それだけではないのです。昼食タイムも冬は厳しいというのです。私や私の知人はみな、「お昼は混むのでかなり待たなければならない」と思い込んでいたのですが、楼蘭のご主人・渡辺さんにお聞きすると、昼もこの冬はお客さんが少ないというのです。まったく意外なことです。
 人気が高く、昼食時にかなり待った経験から、多くの人が混雑を避けられたためではないかと思われます。
 樓蘭さんが冬場も採算ベースにのる営業を続けられるかどうかは、一事業主としての渡辺さんだけの問題ではなく、人を栄村にひきつける名物店を守り、発展させていくことができるかどうかという村の問題でもあると思います。

樓蘭の渡辺俊男さん(「特式韓麺」の盛り付け)

 そういう次第ですので、今冬の間に一度はランチに樓蘭に出かけてみるというようにしていただきたいなと思います。また、先日、大久保集落が冬の間、外に出かけることが少なくなるかあちゃんたちのための昼食の集いに樓蘭さんの特製弁当を注文され、「とても美味しい」と大好評だったそうです。楼蘭さんにご相談されれば、そういうお弁当の注文もできると思います。
 スキー場レストラン、樓蘭さんを是非、応援してください。


雪の魅力が人を栄村に引き寄せる

  • -
  • 2014.01.27 Monday









 これは、「雪板」というものに乗って雪斜面を滑り降りているところの連続写真です。
 滑っているのはNPO法人信州アウトドアプロジェクトの島崎晋亮(しんすけ)さん。場所は「トマトの国」の前の斜面で、1月18〜19日に行われたイベント「雪板」の一場面です。
 「雪板」とはスノーボードのようなもので、それを自分で手作りするのがポイント。金沢や長野、上田市などから12名が参加されました。
 続いて、子どもたちの写真をご覧ください。






 1月12日午後、青倉集落で東京多摩地域の子どもたち80人が「雪国体験」をした時の笑顔、笑顔…です。
 
 正式名称は「多摩島嶼(とうしょ)子ども雪国体験」というもので、今年でもう4〜5回目になります。スキー場でスキーを楽しむ以外に、青倉で「雪掘り体験」をするのが恒例になっています。
 子どもたちの動きを見ていると、雪の中で戯(たわむ)れるのがとても楽しいようです。
 
 「雪板」イベント、そして子ども雪国体験、いずれも栄村の大雪の魅力が人びとを栄村にひきつけていることがわかります。
 暮らす者にとっては厄介な雪ですが、栄村を賑やかにする貴重な宝だという、雪のもうひとつの面が浮かび上がってきます。こういう雪を活用した誘客にわが栄村がもっともっと強くなっていくことが必要だと思います。
 


東京の机上で作られた「防災計画」で栄村を守れるか?

  • -
  • 2014.01.27 Monday

   「市街地では、人口の集住、危険な地域への居住等がみられ、…」
  「意識及び生活環境の変化により、近隣扶助の意識の低下がみられる。そ
   のため、コミュニティ、自主防災組織等の相互扶助組織の強化が必要で
   ある」

 上の文章を読んで、みなさんはどこの地域のことが論じられているのだと思われますか?
 どう読んでも都市部のことが議論されているとしか思えません。栄村に「市街地」と呼ぶようなところがあるでしょうか。3・12地震のとき、各集落で素早くお年寄りの安否確認・救出などが住民の力で行われたこと(「=近隣扶助」の力の発揮)が全国の人びとに強い印象を与えたのではなかったでしょうか。
 そうした事実に反する矛盾があるこの文章、いま村が「意見募集」を行っている「栄村地域防災計画(案)」の中の一節なのです。
 書いたのは東京都に本社がある「株式会社ぎょうせい」です。村が「地域防災計画」の策定を委託した、いわゆるシンクタンクです。
 全国どこの地域にもあてはめ可能な計画に「栄村」という名を入れ込んだだけと言ってもけっして過言ではありません。


「自主防災組織」とは?

 「地域防災計画(案)」には、「自主防災組織を強化する」ということが繰り返し出てきます。他方で、「集落」や「区」についての言及はありません。
 栄村を知らない人、3・12地震の時の被災・避難状況を知らない人が書いたとしか思えません。3・12地震を具体的かつ真剣に総括すれば、若者が勤めに出て集落にいない昼間の時間帯に地震が発生した場合、高齢者のみで災害にどう対応するのか(できるのか)という問題こそリアルに検討しなければなりません。


公民館をどうするのか

 「栄村地域防災計画(案)」では災害発生時の第1次避難場所として、風水害の場合は公民館が指定されていますが、地震の場合はそれが「○○公民館一帯」と変えられています。
 箕作、森、青倉の新設公民館を除いては各集落の公民館は耐震性が不足しているからです。この点こそ、村民が昨年6月の集落懇談会などで村に具体的な改善策の明示を求めてきたものです。それへの回答がすっぽり抜け落ちている。これでは「防災計画」とは言えません。
 公民館を耐震性のあるものに改修するには膨大な資金(予算)が必要になります(旧志久見分校を史料館に改修するには耐震性を考慮すると8100万円かかるそうです)。いまある国などの補助金制度では費用を賄えません。でも、必要なものは必要。このことを声を大にして国や県に訴えていくことが必要です。それが村(長)の役割・使命ではないでしょうか。
 「地域防災計画(案)」は全面的に再検討することが求めれると思います。


疑問と批判が噴出のホームページ制作予算――臨時村議会から

  • -
  • 2014.01.27 Monday

 24日午後1時半から「平成26年第1回議会臨時会」が開催されました。当初予定では午後5時までの予定でしたが、補正予算と財産取得に関わる議案をめぐって議論が白熱し、午後5時前に時間延長を決め、午後6時近くまで審議が続けられました。傍聴してきましたので、その報告をします。


HP制作に「復興基金」投入は妥当か

 補正予算には商工観光予算として、栄村秋山郷観光協会の新しいHP(ホームページ)を作るために「復興基金」を財源として153万8千円を投入することが盛り込まれています。
 議員から、「高すぎる」という批判と同時に、「なぜ復興基金を投入するのか」という疑問が出されました。
 「高すぎる」というのはそのとおりです。見積もりもなしに大手旅行業者JTBに丸投げし、JTB側の言い値にしたがっているからです(HPの制作を昨年4月頃から始めていながら、見積もりが出されたのは11月下旬というでたらめさ!)。事を始めたのは観光協会ではなく、「生涯現役事業」の関係者。そして、「復興基金」は村で行う復興事業で国の補助金などをとれないものに投入すべきもの。観光協会のHP制作に「復興基金」を投入することに妥当性は認められません。
 驚いたことに答弁を求められた村長は「わからない」と言い、商工観光課長に答弁をふりました。その商工観光課長は、「生涯現役事業での振興公社の『笑顔プロジェクト』というHPと抱き合わせで観光協会のHPを作る必要がある。観光協会のHPには旅館や民宿の詳細な内容を掲載するが、利益事業なので生涯現役事業の補助金が使えない。そこで復興基金を使うことにした」と答弁。
 そういう内容のHPを作る必要性は認めますが、簡単に「復興基金」を投入していいものでしょうか。個別事業体の営利事業のための費用なのですから、まず当事者努力等が求められます。現に自力でHPを作り、新しい顧客を獲得している宿もあります。
 

「生涯現役事業は意味あるものになっていないのでは」という声
 「生涯現役事業と抱き合わせ」という商工観光課長の答弁があったことから、議論は当然、3億円の補助金事業「生涯現役事業」の是非に広がりました。
 商工観光課長は「新しいHPを公開したら問い合わせが殺到する」と言いますが、それは甘いというものでしょう。「生涯現役事業」にはすでに1億5千万円が投入されていますが、効果検証はほとんど行われていません。ところが、3年間の「生涯現役事業」の終了後に「復興基金」を1億円、同事業の継続に投入するとすら言っています。
 ある議員からは「3年間でやめてほしい」という悲鳴に近いというべき意見も出ました。
 問題の核心は、「まず3億円ありき」で、3億円を使う事業が自己目的化していることにあると私は思います。村の観光事業や農産物加工、伝統工芸等の発展のために、村民の知恵を結集していくことがまずあって、それに応じて予算を考えることが必要なのですが、その順番が逆転してしまっています。そして、1億円、3億円という巨額のおカネに対する感覚がおかしくなってきている。商工観光課長の答弁からはそう感じずにはいられませんでした。(なお、商工観光課長のみが答弁に立ち、他の村幹部がこの予算に冷ややかな態度をとっていることが感じられることも印象的でした。)


発電機購入にも批判続出

 災害発生時に使う発電機を購入取得するという財産取得の議案にも批判が続出しました。
 わずか15アンペアの発電機で「あまり役に立たないのではないか」というのが批判の出発点ですが、議論は発展し、「そもそも、どこから発電機を購入、各集落に配るという着想は出てきたのか」という根本的な疑問に行き着きました。この疑問への明快な答弁は聞けませんでした。
 中越沖地震では、補助金がばらまかれ、使途に困って業者の言いなりに防災グッズを買いまくったという事例があると聞いています。


議員も反省が必要

 議会がこのように「生涯現役事業」のあり方、「復興基金」の使い方などをめぐって真剣な議論を行うことは議会の果たすべき役割に適(かな)ったもので、歓迎すべきものだと思います。
 と同時に、発電機の購入予算を承認したのは議会、また3億円の「生涯現役事業」の振興公社への丸投げ的な委託を認めたのも議会だということも忘れてはならないと思います。その点を議員さんが反省し、今後、予算審議をもっともっと踏み込んだものにしてほしいと思います。24日にしても、1700万円強の補正予算を審議するのに、当初は2時間ほどの審議時間しか予定していなかったというのはおかしいと思います。そこそこの歳費は出ているのですから、議会の審議時間をもっと増やすことを含めて考えてほしいと思います。
 


配達途中で

  • -
  • 2014.01.27 Monday

原向(はらむき)の野口地区のお宮です。24日の11時過ぎ、斉藤ハルさんのお宅を訪ねて県道に戻るとき、屋根とスノーダンプがぶつかる音が聞こえてきました。目線を上げると、県道の向かい側の小高い丘の上にあるお宮で一人の方が屋根の雪下ろしをされています。「こんにちはー。そこにはどちら側から行くのですか?」と声をかけました。「かんじきを履いていないと上がって来れないよ」と言いながら、おとうさんが姿を見せられました。屋号「あたしゃ」の斉藤幹雄さんです。

 「あー、松尾先生ですか」。私のことを知っていて下さいました。
 「共同作業ではなく、お一人でやっておられるのですか?」とお尋ねすると、「このあたり6軒の組長だからやっているんです。原向は18軒の小さな集落だけど、お宮が3つもあったんです。堀切、長瀬新田、野口の3つ。堀切は1軒だけになったので潰されましたが」とのこと。
 野口の6軒の中にはハルさん、そして屋号「あらや」の斉藤百江さんと、高齢の一人暮らしの女性もおられます。組長が一人でお宮の屋根の雪下ろしをするとなると大変です。
 お宮は、都会感覚で思う宗教施設ではなく、地域・集落のコミュニティの核を成すもの。これをどう守っていくのか。非常に大きな問題です。
 前号で取り上げた切欠の山の上での道祖神祭、前々号の中条の「日本一小さな」道祖神祭の存続ともども、真剣に考えていかなければならないと思います。        (了)

配達日誌1月20日〜25日

  • -
  • 2014.01.27 Monday

20日(月) 今日はNo.208を作成し、ブログへのアップ、メール送信をする一方、大雪や村外出張でNo.206・207の配布が遅れている集落への配達に猛ダッシュ。志久見、柳在家、横倉、切欠、長瀬、笹原、当部(とうべ)、北野、原向を廻る。
 当部集落の入り口にさしかかったのは午後4時25分だったが、そのとき、とてもきれいな夕陽の景色が目に飛び込んできた。車から降りて撮影。

 北野集落で配達中、直前に出会ったスクールバスから降りてきて家路を歩む小学生と出会う。集落の中で子どもに出会うと、なぜかやはり嬉しいものだ。
 除雪作業などで家の外に出ている人と出会うことが多いが、「こんにちは」と挨拶すると、みなさん必ず「ご苦労さまです」と言ってくださる。その一言で疲れが吹き飛ぶ。原向では、以前の配達時に言葉を交わしたNさんがちょうど「たね」の雪をつついて融けやすくしておられるところに出会った。夕闇迫る午後5時過ぎのこと。「ご苦労さま。私も読ませていただいていますよ。時間のある時にぜひ立ち寄ってください」と声をかけていただいた。私は震災以前にこの方と森宮野原駅で出会ったことがあるように思う。今度、時間をつくって立ち寄り、是非、お話したいと思う。

21日(火) 午前中は降雪・積雪あり。午後も3時頃まで降雪するが、積雪せず。午前中は印刷等、配達の準備に徹し、午後、まずNo.206未配布の野田沢、程久保でNo.206〜208のセットを配達。野田沢で配布を始めて間もなく除雪車が入ってきて(写真参照)、その邪魔にならないように車の停車場所を工夫するのに一苦労。その後、青倉、中条を廻ったが、途中で別件が入り、配達終了は真っ暗になってから。雪害救助員を務めている人が青倉に3名いるが、うち2名と出会い、二人とも帰宅後すぐに除雪ロータリーを動かし、家周りの除雪をやっておられた。感心する。今夜は子どもたちのスキー練習の日なのか、スキー場のナイター設備が煌々(こうこう)と光を放っていて綺麗だった。



22日(水) 西部地区の山の上の方で配達をしようと10時頃、貝廻坂を上がったが、その頃からずんずん積もる激しい雪。「山の方での配達は無理だな」と思い、大久保では県道沿いの1軒のみに届けて、人と会う必要があった天地(てっち)に向かう。
 天地を出る頃には大した降りではなかったので「坪野は配っていこう」と欲を出したが、これが失敗だった。坪野に至る道路は1車線分がきれいに除雪されていたが、集落に入ると斉藤英喜さん宅などへ向かう枝道が除雪されていない。膝まではまる雪の中、坂道を歩いて3軒に配達。Sさん宅の玄関に到達しようという時、頭上でズズッという音が…。屋根の雪が落ちてくるのだ! 慌てて玄関の軒下に飛び込み、セーフ。
 今日の坪野は冬の配達の大変さを実感するもので、いい経験だった。

白くて分かりにくいが、この坂道を上っていく

 午後は森集落を廻ったが、全部は廻りきれずに時間切れ。4時から6時まで青倉の車庫で青倉米の袋詰めを行う。
                        

23日
(木) 青倉米の袋詰め、「お米のふるさと便り」の作成・印刷で、今日は配達なし。

24日(金) 雪坪、天代、原向(野口地区)、大久保を廻る。大久保で今日の午後が臨時村議会であることを知り、急遽、午後の配達を中止して午後は1時半から6時近くまでずっと議会傍聴。
天代で「空き家」の周りの除雪を重機でやっている人がいる。通りかかった人に「業者さんが入っているのですか」と尋ねると、「いや、あの家のあんちゃんが来てやっているんだ」との返答。そこで、作業中の「あんちゃん」に声をかけさせてもらった。諏訪から来ておられるとのこと。ご両親が一昨年相次いで亡くなられ、それ以来、除雪に通っておられる。電気工事の仕事を自営でされているそうで、「定年後は帰ってこられるのですか」とお尋ねすると、「うーん、まだなんとも決めていない。自営は定年もないし」とのこと。その後、役場前で再び出会い、そのときにお尋ねしたところ、使っておられた重機は除雪用にローンで購入し、天代においてあるとのことだった。

 原向では、久しぶりに斉藤ハルさんをお訪ねした。お正月は息子さんやお孫さんが帰ってこられ、たいへん楽しかったとのこと。「よかったな」と思う。本を読むのがお好きだそうだ。また、本文で紹介したが、野口のお宮の屋根の雪下ろしをしているおとうさんとお話できた。

25日(土) 昨夕から風邪気味。夜中に薬を飲んだが、あまり調子はよくない。しかし、今日、またく配達しないとすると、明日以降がきつくなるので、午前中に洗濯、午後に配達とする。その間、スキー場レストランにトマトつけ麺などの撮影に行く。配達は森(非配達の16軒)、白鳥の国道下、泉平、小滝を廻る。
 泉平で、屋号「まるや」のおかあさんが玄関先でつぐら作り用の藁を整えておられるのに出会う。「藁は自家製ですか」と尋ねたが、「いや、ここ数年は買っている。一人で天日干しはできないから」とのご返事。つぐら用の藁をどのように確保していくか、むらの伝統工芸の保全のための政策として真剣に考えなければならない。
 また、「トマトの国」のお湯で時々出会うおやじさんと出会う。「滑るから気をつけてよ。俺はやっちゃった」と仰り、包帯をまいた右腕を見せられた。転んで脱臼をされたそうだ。転倒防止には午前の配達は9時半〜10時以降くらいからにする方がよいなというのが、この間の経験からの知恵。

 


栄村復興への歩みNo.208

  • -
  • 2014.01.20 Monday

山の上での道祖神祭――切欠集落
 

 13日は朝から激しく雪が降っていましたが、あるところで、「志久見や切欠(きりかけ)は今日が道祖神らしい」という話を聞きました。「復興への歩み」の配達をする中で、切欠集落への関心を強めていた私はすぐに「午後は切欠に行ってみよう」と決めました。

 
 予定時刻の午後1時半の少し前、切欠に到着し、集落の様子を見渡しましたが、道祖神祭の会場らしきものが見えません。顔見知りの方お二人のお家を訪ねてみましたが、お留守。途方にくれているときに、家の前に出てきたおかあさんに出会い、声をかけてみました。「切欠は今日、道祖神祭だと聞いたんですが…」、「そう、今からだよ」、「どこでやるんですか?」、「あの山の上さ」、「???」、「いまから行くからついてきなさいよ」。指さされたのは公民館の裏山。「えっ、山の上?」と思いつつ、後についていくことにしました。

左手に見えるのが切欠の公民館

雪の坂道を上って
 集落の中心から公民館までまっすぐ進み、そこから斜め横方向に、雪を踏んだ細い坂道    
を上がっていきます(下写真)。

坂道を上がって左に折れると、前日に立てられたという道祖神が目に飛び込んできました(下写真)。


お宮の広場の址(あと)
 「なぜ、こんな山の上でやるんだろう?」、私の率直な疑問です。
 集っていた集落の人が答えてくれました。「昔はここにお宮があったんですよ。ここがお宮の広場で、祭りのときの踊りなどもここでやりました」。
 切欠のお宮が公民館に併設されていることは知っていました。お話によれば昭和40年代の後半(1970年代前半)にお宮はいまの公民館の場所に移されたそうです。

真下は谷
 道祖神祭の会場奥には、雪でつくったお宮がおかれ、奉納のお酒やみかん箱が並べられています。私もお賽銭を入れて、お参りしました。

 この雪のお宮は広場の奥に据えられていて、その裏はもうすぐに崖、谷です。その先の眺めはとてもきれい。柳在家から東部パイロットに入っていく道沿いの谷と山です。落っこちないように注意しないと…。


点火
 1時50分頃、火がつけられ、白い煙が上がります。

 今冬は11月初めの大雪で萱(かや)が倒れてしまい、刈り取れなかったので、各家が保存していた藁を持ち寄って道祖神をつくったそうです。
 私に話しかけてきてくれたおじいさんは、「昔はみんな藁で作ったもんだが、今はコンバイン刈りで藁がなくなってしまった。だから萱でやるんだが、今年は刈れなくてね」と。
 私は村にやって来て以来、萱を基本に道祖神を作るのを見てきて、それが本来の姿だと思ってきましたが、稲の手刈り−はぜ掛けが当たり前の時代、藁で作るのが普通だったのでしょうか。いろんな人からお話を聞かなければならないテーマがひとつ増えました。

 

「切欠はみんな斉藤姓」
 道祖神を囲みながら、いろんなお話を伺いました。
 「切欠には昔、お城があったと聞いていますが?」
 「ああ、あったよ。でも、この前の地震で崩落してしまった。長瀬から原向に向かう道で崩落したろう。あそこだよ。太鼓なんかもあったんだけど、流されちゃったみたい」
 「昔、斉藤実盛という人がここに隠れていたんだって。下の名前は正確じゃないけど。だから、切欠はみんな斉藤姓さ」(「実盛」という名は確かではないそうです)
 いろんな歴史があるんですね。

念願の人にもお会いできました
 「復興への歩み」を私が切欠に配達に行くようになって以来、ずっと関心を持ち続けているお家があります。
 県道北野線から切欠集落に入り、集落内の道路が次第に急坂になってきて、いちばん上まで行ったとき、道路からさらに上に1軒のお家がたっています。斎藤一弘さんのお宅です。
 「あのお家のこと、知りたいんですが」
 「ああ、こちらがあの家のばあちゃんだよ」
 「昔からあそこにお家があるんですか?」
 「下の本家の横にあったんだけど、昔、火事があってね、それで今のところに移ったの」
 「高い階段を上らなければならないので大変でしょう?」
 「うーん、家の下に車が入れる場所があるからね。そこからも上がれるんだ」
あまり苦にされている様子ではありません。

 一弘さん家のおばあちゃん

 雪が積もるようになってからも数回、石段を上って玄関のポストまで「歩み」をお届けしましたが、玄関先からの眺めが最高です。
 下写真1枚目が斉藤一弘さんのお家の玄関にむかう石段(12月29日撮影)、下写真2枚目は道祖神の際にお聞きしたお家の裏側の道。これは階段ではなく坂で、水が流されていて、上り下りしやすい。19日午前に訪れ、撮影しました。お家もお訪ねしたのですが、残念ながらお留守でした。




 



切欠のみなさんのお顔

  • -
  • 2014.01.20 Monday

道祖神祭に切欠のみなさんがご参加の様子を撮影させていただきました。



















狭い広場でみかん撒きも
 点火から40分ほど、火もほぼ燃え尽きました。みかんが何箱も奉納されていましたが、広場は狭く、「みかん撒きをやるのかな」と思っていたところ、男衆が3人、みかん箱を持って、広場横の雪山をかけのぼり、「おーい、撒くぞ」と声をかけます。他の人たちはビニール袋を手にさっと待ち構え、みかん撒きの開始です。

 みるみるうちにみなさんの袋はみかんでいっぱいに。さらに雪を掘ると、みかんが出てくる、出てくる…。
 「おい、カメラの人にあげなよ」と、どなたかが声をかけてくださり、ただ写真を撮っていただけの私も袋いっぱいのみかんをいただきました。感謝!です。


伝統行事の継承や集落の歴史を伝えることの大事さ

  • -
  • 2014.01.20 Monday

今号はどうやら切欠の道祖神祭のことを書くので紙幅が尽きそうです。他にも「東京の子供たちの雪国体験」など、準備してある原稿があるのですが、次号にまわします。
 今回の切欠の道祖神の取材を通して、伝統行事を正しく継承していくことの大事さを強く感じました。その最たるものが道祖神のどんと焼きの作り方です。
 3頁で紹介したおじいさんは屋号「広見(ひろみ)」の長治郎さんでした。

家の前で軽トラの雪を落とす長治郎さん(19日撮影)

 長治郎さんのお話からどんと焼きの作り方が気になり、何人かのむらの人に話を聞きました。その中で森集落の屋号「ほしば」さんがつぎのように話して下さいました。

「そうだよ、昔はみんな藁で作った。  
森はここの山(「トマトの国」のお湯の中での話だったので、「ここの山」とは中条川沿いの山を指しています)に共有林があって、杉の木がいっぱいある。その枝を落して杉の葉をいっぱいとってくる。それを藁にたっぷりと差し込むんだ。だから、点火すると、白い煙がモクモクと上がる。煙がまっすぐ上がると、習字も真上に上っていく」

 切欠のどんと焼きはなかなか赤く燃え上がらず、モクモクと白い煙が上がり続けていましたが、あれは杉の葉がたっぷりと差し込んであったからなのですね。
 切欠の道祖神祭は残念ながら若い人の姿が見えず、中高年の人たちだけで行われましたが、その分、どんと焼きの本来のやり方が生きていたんだなと、いま、感じています。
 また、藁でどんと焼きを作ることができるように藁を確保する稲刈り・天日干しをすることは道祖神に役立つだけでなく、伝統的な民芸品・ねこつぐら作りを持続させていくことにも役立ちます。さらに、どんと焼き用に杉の葉をたくさんとるようにすることは山仕事を大事にし、森林を守ることにも通じていくと思います。


家をどのようにして守っていくか
 タイトルに「集落の歴史を伝えることの大事さ」と書きました。歴史を伝えるために、お年寄りなどからお話をお聞きし、それを記録にとっていくことも大事です。しかし、集落の歴史は人びとの暮らしとともにあるものであるものだと思います。家を継承する人がいなくなり、空き家になっていけば、(変な表現かもしれませんが)やはり歴史の濃度はぐっと落ちてしまうでしょう。
 私は19日午前、大雪警報発令の中、切欠集落に行き、お一人暮らしをされている屋号「のぼり」の斉藤光子(てるこ)さんをお訪ねしました。12月29日の配達の際、ちょこっと立ち話をさせていただき、知り合った方です。お家をお訪ねして1時間程でしょうか、色々とお話をお聞かせいただきました。お話をお聞きして考えるところが多々あったのですが、とくに感じるところが大きかったのは、いまお住まいのお家をどう守るかというお話です。

写真左が光子さんのお家(12月29日撮影)
(写真中央にダンプで雪をたねに運ぶ光子さんの姿が見える)

 建てられたのは昭和18年とのことで比較的新しいお家ですが、じつに立派なお家です。地震では一定の被害があったそうですが、建物がしっかりしていて、建て替えや大修理を必要とするような傷みはなかったそうです。光子さんが森集落から嫁いで来られたのが終戦直後の昭和21年。光子さんご夫婦だけでなく、ご主人のご両親夫婦、ご主人のご祖父夫婦と3代の夫婦がお住まいになり、現在の建物よりもずっと大きな建物だったそうです。光子さんご夫婦だけが暮らすようになってから、「つけさげ」と呼ばれる部分を除却し、現在の大きさにされたとのこと。

 お孫さんが東京方面におられるそうですが、いちばん年下のお孫さんがこの切欠の家を大好きで、「ばあちゃん、雪消しに行くからな」と言っておられるそうです。おそらく都会の暮らしにはないよさが切欠にはあるのでしょう。もちろん、おばあちゃんの魅力がいちばんの力だと思います。
 光子さんが健在であるかぎり、こういうお孫さんが都会とむらを行き来してくれます。しかし、光子さんがおられなくなれば、その行き来は途絶えてしまう可能性大です。あえてこのように書くのは、なによりも光子さんご自身がそのことを心配されているからです。

 翻(ひるがえ)って、最近、東京栄村会の人たちとお話する機会がありました。会創立30周年を記念する本を作られ、2月15日に予定されている総会で披露され、栄村各世帯にも配布されるそうです。その本には会員100名以上の方々が「ふるさとへの思い」を綴(つづ)っておられるのですが、「みんな素晴らしい文章を書いてくれている。ふるさとが嫌だなんて思っている人はひとりもいない」と話しておられました。その中には帰る家がもはやむらにはないという人もおられます。
 むらの人が都会に出るのを単純に否定することはできません。ましてや、都会で生まれ育った孫世代がむらの家をそんなに容易に継承することができないことは言うまでもありません。それでも、たとえば光子さんのお孫さんが切欠のお家を継承していくことができるような工夫をする余地はあるのではないか、あってほしいと、私は思うのです。
 震災前も震災後も、古民家の保全というと、ある種の交流施設に作りかえるとか、都会からのIターン者に購入あるいは賃貸してもらうという方法しか考えられませんでしたが、そのお家のお孫さん(曾孫(ひまご)さん)が都会暮らしもしながら、むらのお家を引き継いでいく方法というものを考えたいなと思うのです。ヒントのひとつは、現在の空き家に2種類あることです。雪の季節になって、まったく除雪がされない空き家と、屋根や家周りの除雪がされている空き家とがあります。後者の場合、おそらく親戚の人などが除雪作業を引き受けて下さっているのでしょう。ここに一つのヒントがあると思うのです。ただし、親戚の人などの負担が増えていくのではなく、新しいシステムを創り出して、親戚など限られた人の負担が増えず、除雪などができるようにするのです。こういうケースの除雪を引き受けることがむらの仕事(産業)になるようなシステムです。
 こんなことを言うと、おそらく「やっぱりお前は外の人間だ。そんなことが現実的なわけがないだろう」と言われるでしょう。私自身、そんなに簡単にできることだとは思っていません。しかし、なにか、考え出していくことが必要なことは確かではないでしょうか。 (了)


配達日誌1月12日〜19日

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  • 2014.01.20 Monday

12日(日) 午前8時から中条のどんど焼きの準備。小1時間で終わり、10時半の点火までの空きを使って、森集落43軒にNo.206を配達。正月の松飾りなどを回収してまわる子どもたちの姿を見る。午後のどんど焼きの点火役も子どもたちで、道祖神祭本来の形だ。10時半から12時半近くまで中条の道祖神祭。その後、1時半に森の道祖神祭の点火を撮影し、東京の子どもたちの「雪国体験」の取材で青倉へ。午後4時前まで。
               

子どもたちの持つトーチに点火(森集落)

13日(月) 深夜1時頃、栄村に大雪警報が出る。朝、車庫のシャッターを開けると、早朝除雪の後、さらにかなり積もっている。

早朝除雪済の道路にさらに新雪。写真手前の盛り上がり=除雪車が押し出した雪の塊りの
上に新雪がのったものを道路反対側までスノーダンプで押し出して車を出せるようにする。

 No.207のブログ発信、BCCでのメール配信の後、印刷へ。Yショップで買い物の際、「志久見とどこか、それに切欠の3ヶ所は今日が道祖神」と聞き、午後は切欠に行くことを決め、激しく雪が降る中、No.207の青倉での配布を急ぐ。でも、Jさんの所などは家までの道が膝上まで積雪がある状態でいつもより時間がかかる。切欠の取材は午後1時半から3時頃まで。その後、遅い昼食を食べて、休息と室内作業。

14日(火) この間の寒波の中でも、今朝は最も寒かった。ぐっすり寝ていて、朝早くにファンヒーターにスイッチを入れていなったので朝7時前の室内気温は4℃くらいしかない。
 路面は凍りつき、ブレーキは効かない。下手にブレーキを踏むと滑ってしまう。午前中は少し降っていたが、午後は曇。今日はほとんど室内での作業に追われ、午後3時過ぎに昨日廻りきれなかった青倉の15軒に配達。高齢の一人暮らしのかあちゃんが玄幹脇の屋根から落ちた雪を片づけている。「大丈夫かい?」と声をかけると、「1時間以上はやらないから大丈夫」との返事。逆に「いつもご苦労さん」と声をかけられる。
 昼過ぎ、用事があって森に行ったとき、「旅館吉楽」の前を通ると、なにかいつもと様子が違う。今冬初めての本格的な屋根の雪下ろしが行われ、建物の周りに大量の雪が積み上がっているのだ。


15日(水) 全国的にも厳しい冷え込みのようだが、とにかく寒い。朝5時に起きたら、水道管が凍って水が出ない。大家さんがとても親切で、午前中配達に出ている間、トイレに温風を入れるよう、ストーブを焚いてくださっていた。昼には無事、水道が出た。朝8時頃に宮野原橋を通った人の話では国道の気温表示は零下9℃だったという。
 配達はこの間の遅れを取り戻すべく、午前からモーダッシュしたが、道が凍っていて能率が上がらず。昼間はポカポカしていたが、午後4時、坪野で寒さを感じ、5時近く、極野では手がかじかんだ。
 除雪作業に精出す人が目立った。

16日(木) 昨日ほどの冷え込みではなかったが、朝8時頃から箕作を廻ると、道路が凍っていて、やはり能率が上がらない。月岡でいつものコースと違う廻り方をすると道がよくわからなくなり、出発点に戻る。ポストの上に屋号を書いた表示板を付けている家を前回見つけ、今日、声をかけて写真を撮らせてもらった。屋号「越」で関谷富夫さんのお宅である。

 午後は印刷がはかどらず、4時頃から白鳥へ。国道筋を暗くなる前に終わらせ、国道よりも上の地域は暗くなってから。各家の場所を覚えていて、暗くてもきちんと廻れた。

17日(金) 村外での仕事があり、帰宅は午前3時。

18日(土) 朝7時45分に森宮野原駅でボランティアの方を出迎え。やはり寝不足で配達には出かけられず。午後1時半、「トマトの国」近くで雪遊びのイベント「雪板」を取材。

19日(日) 天気予報通りに昨夜から降り出し、朝7時半頃、「栄村に大雪警報発令。0時間で40cmの降雪」との村内放送(写真は8時半に車庫のシャッターを開け、車が出る道をあけている時の様子)。

10時過ぎに小滝で「雪板」の取材があるが、その前に切欠に出かける。朝一度除雪が入っただろうが、どんどん積もり、集落内道路の途中からの坂道は車では上がれそうにない。
 斉藤光子さんにお会いした後、「雪板」の取材で小滝へ。
 昼過ぎ、家に戻るが、積雪が多く、車を車庫に入れられない。スノーダンプとスコップで除雪をやっていると、上から除雪車がやって来てくれた。オペレーターは顔なじみの高橋健さん(青倉集落)。

 運転席の窓を開けて、「車を入れるの?」と尋ねてくださり、「はい」と答えると、車庫の入り口間際までドーザーできれいにして下さった。有難い。

(了)