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栄村復興への歩み
2011年3月に震度6強の地震で被災した長野県栄村で暮らす松尾真のレポートを更新しています。

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東山道の面影を追いながら・・・

「東山道(とうざんどう)の面影を追いながら、・・・」栄村の古道・旧道を歩く
 
 6月28日の午前7時24分、飯山線桑名川駅に男女3名のグループがハイキング姿で下り立たれました。須坂市の市川美津夫さんら「街道を訪ねる会」の人たちです。
 古(いにしえ)の道の面影を追いながら、栄村・森まで旧道を約14km歩かれるのです。

西大滝のお地蔵さんの横を歩く市川さんら

「東山道(とうざんどう)」って何?
 栄村内の案内を依頼されて私も同行したのですが、「東山道」という名は初耳です。江戸時代の五街道で江戸と京を軽井沢や木曽を経て結ぶ東山道(中山道(なかせんどう))ならば知っていますが、それでは北信濃・栄村とは関係ありません。
 この日、テーマになっていた「東山道」は、「主に大化前代律令前の古東山道のこと」だそうです。つまり西暦645年の大化の改新よりも前の時代のものなのです。そして「大和朝廷の蝦夷(えみし)の討伐・屯田兵(とんでんへい)・柵(きの)戸(へ)移動の道」だったそうです。
   *柵戸とは、朝廷が蝦夷(現在の東北地方)討伐・征服の
    ために設けた拠点(城柵)に配置された人たちのこと。
    信濃の国からも派遣された。

白鳥が重要なポイント
 市川さんからいただいた資料によれば、
   「多古駅家(長野市三才)あたりから千曲川の左岸に沿って
   進み、栄村の白鳥から深坂峠にかかって頸城郡に下り、……
   三島駅(柏崎市)に至り、……北陸道を北進し淳(ぬ)足(たり)
   柵に通じていたと考えらえる」(淳足柵は現在の新潟市沼垂
   (ぬったれ)

 白鳥が重要なポイントになっていたのですね。『村史』に出てくる白鳥峠道のルーツは古代にまで遡(さかのぼ)るのですね。これで、白鳥という地名の由来を伝える伝説の意味も少し理解できるようになりました。
 その伝説とは、白鳥集落の方はよくご存知ですが、
   「日本武尊(やまとたけるのみこと)が信濃の国、越後の国を征
   討の折、一行は信越の国境(くにざか)いの野々海峠の山中で難
   渋した。この時一羽の白鳥が舞い来たりて尊の弓に止まり、こ
   の白鳥が一行の前に先へと飛んで誘導し、沢伝えに南下して部
   落まで至った。以来この部落に白鳥の名が残り、白鳥の南下し
   た沢を白鳥沢の名称で呼び伝えられている」
というものです。

白鳥沢。現在、砂防ダムの工事中。
(写真中央を白鳥沢川が流れている)

善光寺街道の面影を追いながら森まで歩く            
 「東山道」の面影だけを追うのであれば、白鳥で終わりということになりますが、市川さんらは、ここからは江戸時代に善光寺街道と呼ばれた古道の名残を求めつつ、主に旧道(明治24年に開通した県道谷街道、後の大正9年に国道昇格)を辿りながら森宮野原駅まで歩かれました。
 『村史』の記述を紹介しながら、市川さんらの旅を追います。
 
<白鳥集落>
   「西大滝から白鳥に入り、白鳥公民館裏で橋場川を渡り、加治
   屋敷、荒戸原の家並にそって豊栄分校前に達する。ここから樽
   坂の難所をさけて一気に峯へ登り、平滝地区字(あざ)上リット
   通称城平を下って…」

 「加治屋敷」という地名(字名)ですが、現在、国道117から白鳥沢に入っていくところの飯山線の踏切には「鍛冶屋敷踏切」と書かれていますね。
 市川さんたちは「加治屋敷」の手前から国道117の歩道を進み、旧豊栄小学校をご覧になりました(下写真)。


 旧豊栄小前から山の方を見たのが次の写真イです。山に入っていく道(農道)が見えます。ここを上り、写真右側の峯を越えると平滝に出ます。その平滝に出る地点が写真ロです。私は6年ほど前にこの道を辿ったことがあります。

写真イ


写真ロ(写真左下は白鳥大橋。中央の坂道が白鳥から峯を越えてきた道)

<樽坂の難所>
 『村史』の記述に「樽坂の難所」という表現が出てきましたが、ここにスノーシェッドが出来たのが昭和11年のこと。国道117号線の改良以降、道路としては使われていませんが、《歴史遺産》としての価値があるものだと私は思います。現在、今年3月末の融雪災害がスノーシェッド内の道路の一部がぬけ、復旧工事が予定されています。
 スノーシェッドの正式名称は「樽坂雪覆道」。6月13日、その様子を撮影してきました。

入り口上部に「樽坂雪覆道」の文字が刻まれている。6年ほど前
に訪れた時はすべての文字がはっきり見えたが、いまは一部が剥
がれ落ちてしまっている。


 スノーシェッドの壁には苔むした箇所がありますし、天井部には隙間があいているところもあります(下写真)。それだけに《歴史遺産》的な価値が高いと思うのですが、いかがでしょうか。

天井に隙間ができた箇所


融雪災害箇所

<平滝集落>
 再び、『村史』の記述から。
    「平滝地区字(あざ)上リット通称城平を下って鉄道線
    路と国道字(あざ)かち川橋の中間点で川を越え、才ノ
    神下から字(あざ)田原、字(あざ)宮沢、字(あざ)中田、
    元屋敷等の家並を縫い、字(あざ)馬場字(あざ)びんご
    に至る。ここはその昔平滝渡船場があったが、街道は
    さらに字(あざ)原、字(あざ)下東原では千曲川端を伝
    い、関屋新聞屋附近から少し登って二俣川を渡り、字
    (あざ)宮地、清水河原では千曲川の急流で足を洗われ
    るような危険をおかして横倉区八丁に至る。(ずっと
    昔は、清水河原の難所をさけて峯越えで横倉に抜けた
    という)」
 
 善光寺街道は現在の国道117号線よりも下の千曲川寄りのところを通っていたということですね。市川さんたちは道直しで整備された田んぼの中の道を進まれました。(その途中、「フランセーズ悠さかえ」さんにトイレを拝借しました。有難うございました)
 ところで、『村史』に出てくる字(あざ)名、平滝にお住まいの方でもわかる方は少ないかもしれません。以前に役場からご提供いただいた「字(あざ)切図(きりず)」というものの平滝部分を参考に紹介しておきます。



 左端に「上りと」とあるのが、『村史』にいう「上リット」だと思われる。少な
くとも「田ヤ」、「宮沢」、「中田」、「馬場」、「ビンゴ」、「下東原」、「清
水河原」、「八丁」の名は読みとれる。

 市川さんたちはフランセーズ悠さかえの所から国道117に上がり、しばらく国道117を進んで、ガソリンスタンドを越えたところで再び旧道へ入り、清水河原のスノーシェッドの中を進まれました。そして、「常慶院を訪れたい」というご希望がありましたので、百合居橋から常慶院までは私の車でご案内。常慶院の石段を登り切ったところでしばしの休息をとられました。


<横倉集落>
 常慶院から百合居橋に戻り、横倉集落を進みます。『村史』には
   「横倉駅前から農業倉庫の裏を過ぎ、村中の道を通り、長坂
   から上り始めて山手へ入り、字下鳥屋から青倉区内横倉沢で
   川を渡り…」
とありますので、現在の幹線村道ではなく、横倉集落内の家並に沿った道を進んでいただきました。

横倉・渡辺利正さん宅前を進む市川さんたち

<青倉集落>
 市川さんらは横倉から青倉へは四ッ廻りに行くときに使う旧道を歩まれました。
 その途中、横倉沢橋に手前で、四つ廻り水路のかけ口までご案内。
 横倉沢川右手の山を示しながら、「ここの山を上って青倉にぬけたのですよ」と説明しました。


横倉沢川から上る山(実際に上ろうとするとかなり急峻(きゅうしゅん))

<福枚(ふくべら)峠>
 また『村史』に戻ります。
   「字うば久保地内を登り切り、字西坂ノ上の庚申塚前に達す
   る。ここから下れば青倉であるが、この所は福枚(ふくべら)
   峠と呼ばれる街道中の急坂であり、その昔は茶屋があって上
   り下りの人々は汗を拭き一杯の粗茶でノドのかわきをうるお
   し、駄賃馬に一息入れさせたという。」

 青倉に入った市川さんたちを軽トラで、横倉沢川を渡って上ってくるところ、そして庚申塚に案内しました。

 
山を上り切った後、字西坂ノ上に下る道
(現在も農道として使用されている)


田んぼと写真中央の樹木の間を横倉沢川が流れる
  

写真右手の小高い所が庚申塚。その手前、白い花が
咲いているところに、「左ぜんこうじ、右山道」と
刻まれた道標がある。

 現在の青倉・西山田への農道は車を使うようになってから出来たもので、かつての福枚峠に比べればなだらかな坂道になっています。

<青倉集落>
 さて、市川さんらは青倉集落に戻り、集落の中を進まれました。山から下ったところから集落中央あたりまでは善光寺街道の面影はほとんどありません。しかし、青倉公民館を過ぎたところからは善光寺街道の道形が残り、現在も街道沿いの数軒のお宅の作業道として生きています。


『村史』では「繊法(せっぽう)塚(づか)」と記されているところ、
高橋友太郎さん(屋号「千本(せっぽう)塚(づか)」)宅前を進む
市川さんたち

<森集落
 やはり『村史』の記述を紹介しましょう。
   「ここ(繊法塚)から一気に中条川に下って川を渡り再び上
   って中条部落を左手に過ぎ、国道筋を行くこと300メートル
   程で大沢から森用水堰の端を通り、神社前で右に折れ、番屋
   前から用水路にそって松屋商店裏を通り、千曲川の流れの音
   からヒントを得たかと思われる字ドドメキを過ぎて、松葉前
   で左に曲り、的場頭、的場という歴史的地字名のところを過
   ぎ十王堂前(村の定型として十王堂は村の中央なり、森では
   何かの都合でここに移されたものであって、現に堂ノ後とい
   う屋号の家は別の所にあり)の小坂を下って、現高橋木工所
   前から登って鉄路を横切り、庚申塚で堂原地籍に入る。左館
   跡にそい字原の畑中を過ぎダラダラ坂を下ること3、40メー
   トルで信越国境字境で越後国羽倉地区に入る」

 私の勉強不足で森の字(あざ)名はよくわかりません。市川さんらはお宮の所在を確認された後、Yショップ前の信号を左折して、森宮野原駅に到着されました。
 
 桑名川からここまで約14km。市川さんは4月26日に飯山駅から戸狩野沢温泉駅まで、つづいて5月11日には戸狩野沢温泉駅から桑名川駅まで、計22kmを歩かれ、今回で「東山道の面影を追いながら…」という歩き旅のシリーズが完結したとのことです。
 
歴史資源と豊かな自然を生かす“歩き旅”はなかなか面白い企画
 4月末に市川さんからお手紙をいただき、案内を請われたとき、率直に言って驚きを禁じ得ませんでした。「えっ! 桑名川から森まで歩くの?!」と。
 でも、結果からいえば、とても楽しい企画でした。桑名川から西大滝の間、初めて見る景色が多かったのも楽しかった。


藤沢と西大滝の間にて

 歴史を訪ねる、しかもゆったりした気分になれる豊かな自然の中で。これは栄村の資源を生かす企画にできるだろうというのが率直な感想です。市川さん、楽しい機会をお与えいただき、ありがとうございました。
 

配達日誌6月20日〜27日

20日(金) 青倉の農業・生活用水を中条川から取り込み、送る大堰の台風災害工事が始まっているので、その様子をレポートした号外を青倉全戸に配布。
 それにしても行政の縦割りによる災害復旧の欠陥には目に余るものがある。



 上の写真は大堰水路の様子を19日に撮影したものだが、ブロック工が見えるところの上が水路、下は中条川の河床。誰が見ても、ブロック工の上部の崩れ箇所やブロック工の下のコンクリート板の空洞部分などが復旧工事の対象となっていると思われるだろうが、これらは対象外。「水路は農政担当、河川は別」ということで、水路の復旧工事の対象とならない。では、河川担当の県建設事務所がやるのかといえば、5月に説明会があった建設事務所の復旧工事計画ではここは対象となっていない。
 村長、県建設事務所長などに一度、この現場を歩いてみてもらいたいものだ。
 
 今日の午前、安曇野市穂高文化協会という団体が35名ほど、村に来られたのを案内した。前々日の申し込みで大変だったが、中条川の山崩落と土石流つめ跡が見える場所に案内してお話した。「こんな役に立つ話は初めて聞いた。是非、文章にして、市の防災部局に送りつけてほしい」と言われた。真剣に防災を考える人たちの行政への苛立ちにはかなりのものがあるようだ。18日に訪ねて来られた県内のある町の人たちもその旨を頻繁に口にされていた。
 
21日(土) 長野在住の山伏、増田哲将(のりまさ)さんが古道の取材で訪ねて来られ、お世話をさせてもらった。たしか「週刊長野」という名称のタブロイド版の週間新聞に街道に関するエッセイを連載されている。以前、古道歩きに数回参加され、間もなく志久見街道について書かれる予定。



 歩きながら話していて、この方は元福島第一原発副所長であったことを知り、驚いた。原発事故と自己の責任を詫び、福島をはじめ全国各地を行脚されているとのこと。
東電の人事構造の話、福島現地の「原子力ムラ」作りの工作の実態などの話が興味深かった。講演などで自身で話しておられるとのことなので、公表しても不都合はないようだ。ただし、Webで検索したかぎりでは、さほど詳しい話は出ていない。
 さらに詳しい話を聞いてみたいものだ。

22日(日) 今日は配達はせず、青倉集落の田休み(タケノコ狩り)などの取材で一日を過ごす。
 菅沢農場のアスマトハウスには先週の日曜日に続いて今日も30人強のお客さんが来られたそうで、昼食を提供した「たんぽぽの会」の3人、阿部初代さん、山本きわさん、斉藤勝美さんが後片付けをされていた。
 たくさん作った料理の余りがあって、「食べていって」と言われる。この時期の旬のもの、「ミズナ」のキンピラの写真を紹介する。



 私は京都出身だが、京都あたりで「ミズナ」というと栽培された菜っ葉が頭に浮かぶ。だが、ここで言う「ミズナ」は山菜。和名を「ウワバミソウ」という。水のしたたり落ちるような場所や細い流れに沿って群生し、葉ではなく茎の部分を食べる。皮を?いたうえで茹で、おしたしやキンピラ、煮物などにして食べる。あっさりしていて、美味しい。
 勝美さんの畑で採れたイチゴも頬張らせていただいた。真っ赤で甘い。

 
23日(月) 午前中は配達と大庭家のえのきの釜詰め作業の取材。
 午後、今日から授業で栄村の調査に入った駒澤大学の学生さんを案内して、青倉の四ッ廻り、西山田、貝立山裏の水路かけ口、野々海池を廻る。人を乗せての運転でいささか疲れたが、いい景色をたくさん見ることができた。
 とくに、野々海ならともかく貝立山裏の水路かけ口近くで残雪に出会えたのには驚いた。
 野々海池に着いたのは3時40分頃だったが、その直後から、森から池へ雲が流れ出し、シャツの袖をまくっているのでは肌寒いくらいに。やはり沢にはたくさんの雪が残っていた。

野々海池から流れ出た水路(木の蓋がかぶせてある)と沢の残雪

 青倉集落に戻ってから、学生さんと一緒にむらのかあちゃんと野外お話。四ッ廻りの田んぼでカモシカに稲を食べられた被害が話題に。つい数日前、やはり青倉の広瀬明彦さんからカモシカによる稲の被害を聞いたばかりだった。明彦さんの田んぼの被害の様子を20日に撮影していたので、それを掲載しておく。

カモシカによる食害の跡

 伸び始めた稲の上半分くらいが食べられている。田んぼの畦に近いところではなく、わざわざ田んぼの中心部に入って、そのあたりだけを食べている。よく見ると、足跡もわかる。昨年の同時期に被害を受けた人の話では、稲は改めて伸び始め、秋には収穫できたとのこと。

24日(火) 午前中、志久見・柳在家・切欠を廻る。その他、今日はいろいろと手伝い仕事があった。
 柳在家で1枚の写真を撮った。数日前に「震災で壊れた家はここにあったんです」と教えていただいた場所だ。下写真の草が生えていないところが家の跡。



 私は震災の年の夏、柳在家の祭り復活を支援したことがあり、柳在家の写真をたくさん撮ってきたが、震災前の柳在家の家並みを詳細には知らない。いまは1週間に1回くらいの割で柳在家の集落の中を廻るが、「震災前に家があった場所」というのは教えてもらわないとわからない。
 こういう記録を残しておくことは震災復興にとって重要な意味があることだと思う。
 
25日(水) 昼ごろ、凄い雷雨だった。「稲妻が走り、雷鳴が轟く」というだけのことではなく、自分のすぐそばに落ちたのではないかと思うほどの感じ。久しぶりに怖い雷雨だった。雨も凄かった。でも、30分間くらいのことだったろうか。その後はとてもいい天気になった。
 No.223を昨日で配り終えていたので、今日は駒澤大学の学生さんの案内や、直売所について村民の方の意見の聞き取りなどであっという間に一日が過ぎた。

 朝、貝廻坂を上がったとき、「測量作業中」の看板に気づき、測量作業が行なわれているのも目に入った。午後遅く、再び貝廻坂を通ったとき、測量の人が作業を終えて車両の脇に立っておられたので、思い切って声をかけた。すると、「ああ、松尾さん」と言われてビックリ。車体の書かれた建設会社の社名は隣市の会社のものだったが、「私のこと、よくご存知ですね」と言うと、「だって、私、○○集落だもの」との答え。貝廻坂の今年の改良工事がどんなふうになるのかをいろいろと話していただけた。本文でも書くが、昨年の水害でぬけた箇所が今年の工事区間に入ったとのこと。「でも、あの沢の水をなんとかしないと、また災害が発生するのでは」という私の質問に、沢の水の流れを詳しく説明してくださった。地元の人ならではの知識。沢は貝廻坂を2ヶ所で突っ切りながら(道路の下の導水管を通るのだが)、村道月岡〜小滝線の横手に見える右写真の箇所を通り、月岡集落大巻の縁(へり)から千曲川に流れ出ているとのこと。早速、その場所を見に行って写真を撮った次第。千曲川に流れ出るあたりは今は草に覆われて、パッと見ただけでは水が流れているところはわからない。

道路脇の赤い鉄板のところに水が落ちてきている
(この道路の下をくぐり、大巻の縁を通って千曲川へ)

 こういうことを一つ、一つ、地元の人たちから聞き取って勉強していかないと、本当に震災・災害に強い村づくりはできないなと改めて強く感じた。

26日(木) 昨日は夕方5時から7時半頃まで、栄中学校の体育館で杉良太郎などの復興支援歌謡ショーがあった。往復葉書による申込制で定員500名、応募超過の場合は抽選とのことで、私は申し込みを遠慮した。昨夕、温泉に行ったら空っぽ。一定の年齢以上の人はほとんどが行かれたもよう。今日、感想を聞くと、「よかったよ!」という声が圧倒的。こういう楽しみもいいものだと思う。

 23日から村に来ている駒澤大学地理学科の学生さんたちの1つの班が青倉集落の屋号について調査している。午前中、宿に彼らを訪ねて、「どんなことがわかりましたか?」と尋ねた。村民の協力を得て、ある程度調べることができているようだ。「現在の集落地図ではなく、昔の地図に屋号を書き込んだイラストマップのようなものを作ろうと考えている」とのことだったので、昔の善光寺街道の青   
倉集落部分を案内しようというこ   
とになり、学生さんたちと青倉を歩く。


森の駅で記念集合写真を撮った後、商店街を歩く学生たち
この通りを若い人がたくさん歩く光景はやはりいいものだ

 午後は、手伝い、事務作業などで結構忙しい一日だった。
 
27日(金) じつは21日夜、新しく建設される直売所をめぐって「出荷組合設立準備会」という会合があった。といっても、役場による説明会のようなもので、集まりもいまひとつの感。危機感を抱き、先に25日の頁に書いたように、いろんな意見を聞いて廻っている。今日もそういうことで何軒か、意見を聞きに廻った。
 昨年の2月頃に初めての説明会があった頃には参加者にある種の勢いがあった。しかし、そこから今日まであまりにも時間が長く、勢いが削がれた。これは私自身の感想でもあるが、じつはかあちゃんたちの声でもある。でも、直売所の建物が復興交付金で建設される以上、「建物は建ったけれど・・・」ということにするわけにはいかない。それで、いろいろと意見を聞いてまわっている次第。そこで聞いた声をもとに、「復興への歩み」本文に記事を書くつもり。



 そんな聞きまわりの中でお茶のみに出されたキュウリとブロッコリー。食べ始めてから撮ったので、あまり体裁よくないが、新鮮なキュウリに味噌をつけて食べると、とても美味い。こういうことも直売所成功のヒントになる。
 

大庭君家のえのきNo.2

 今回は「釜詰め」作業。23日午前8時すぎの撮影です。
 
「釜詰め」とは
 約60日間かかるえのき栽培のいちばん最初の作業です。
 えのきの種菌を培養する土台(培養基)となるオガ粉などをビンに詰め、その後、釜に入れて約10時間熱殺菌をする作業です。
 
ビンに詰めるもの
 ビンに詰めるのは、オガ粉(木のオガクズ、オガを作る専門業者がいる)が主体ですが、その他に米ぬか、コーンカブ(とうもろこしの芯の部分を粉にしたもの)、粉炭(こなずみ)、ミネカルG(貝化石)、ベストイール(寒天作りに使った天草(てんぐさ)の残りかすが原料)が入ります。
 これらのものを下の機械に投入して混ぜ合わせます(この作業には私は間に合わず)。

この機械の撮影は釜詰め作業終了後のもの。
 
オガ粉に粉炭を投入したところの写真を光一さんから提供していただきました。

 
 つぎの写真は米ぬかに電子チャージをかけている様子(撮影:大庭さん)。米ぬかが酸化しているのを電子チャージで還元するそうです。


オガ粉などをビンに詰める
 つぎに、オガ粉などを混ぜたものをビンに詰めます。(私はこの作業が始まった直後に作業場に着きました)
 ビンに詰める作業は下の写真の機械がやってくれます。
 ひと昔前は1本、1本手作業で詰めたそうですが。

 
機械の動きを以下、写真で追いかけます。

真ん中に見える緑色のところにオガ粉などを混ぜたものが入っていますが、そこから青色の筒状のものでビン詰めをする機械の上部に運ばれます。




上からピストン状のものでオガ粉が1ケース16本のビンに詰め込まれます。

 1ケース詰め終わると、光一さんが引っ張り出し、ローラーの上へ。ケースはローラーの上を流れて、ビンに蓋をする久子さんのところへ。

 
 ビンに蓋をする久子さんの作業がなんとも素早い。両手に計4個の蓋を持ち、一瞬のうちに蓋をしていく。


 写真にみられるように光一さん、久子さんの共同流れ作業で、二人の息がピッタリ合っています。そこでちょっと意地悪質問をしてみました。
   「夫婦げんかをしているときは、どうするんですか?」
   「無言でやり続けるのさ」
 まあ、仲のいいご夫婦ですから、そういうことは滅多にないのでしょうが。
 1ケース16本の蓋をすると、久子さんが釜の前に積み上げていきます。

 
 これ、ずいぶん重いものです。「まあ、ちょっとコツがあってね」と久子さん。
 42ケース分積み終わったところで、それを釜の中へ送り込みます。レールが敷いてあるので、送り込みはそんなに力を要しません。42ケースでちょうど今日の釜詰め量の半分です。


これがケースを積み上げるところ。
 
 42ケースを釜に送り込んだところで、久子さんが「釜に火を入れます」と言って、操作盤のところへ。

たしかに釜に火が入ったことがわかります。

 この後、残り半分の42ケースについて、ここまでと同じ作業が繰り返されます。
 そして、すべてのビン詰めが終わり、残りの42ケースも釜に送り込まれると、久子さんが釜の扉を閉められます。

扉に計16か所あるロックをされているところ。
 
 このとき、光一さんはすでにオガ粉などを混ぜ合わせる機械、ビンに詰め込む機械の掃除を始めておられます。
 
 ある意味ではビンに詰め込む作業以上に重要な作業です。

10時間、釜で殺菌
 釜の扉が閉められたのが午前8時40分すぎのことでした。
 私はいったん大庭家を離れ、正午頃に再度訪れると、釜から蒸気が盛んに出ていました。蒸気が出始めるのは釜の扉を閉めてから約2〜3時間後だそうです。


 午後7時すぎ、光一さんからメールが入りました。
「18:30ごろバーナーが止まりました。19:00にふたを開けて放冷。21:00から接種室に移動します」
とあります。
 約10時間、オガ粉が入ったビンはボイラーで熱せられる釜の中にあったのです。これでオガ粉が殺菌されたわけです。
 そして、放冷です。釜の中で熱くなっているビンを2時間ばかり外気で冷やすんですね。接種室は前回紹介した「接種」(種菌つけ)を行なうところ。その内部は12℃に保たれています。2時間放冷すれば、接種室に入れても大丈夫なわけです。

大庭君家の釜の中の変わったもの
 朝8時すぎに訪れたとき、光一さんに「これを見て」と示されたものがあります。

 釜の底部です。そこに木炭が置かれています。燃料というわけではありません。オガ粉に粉炭を入れたこと(他の栽培者は入れません)とあわせ、光一さんの“こだわり”です。
 炭にどんな効果があるのか。光一さんに尋ねると、「釜の中の水を浄化する」とのこと。光一さんがこえのき栽培用に「電子水」(水分子の小さい水)というものを作るのに1年間使った炭を次はこの釜で使うのだといいます。そして、釜の底に置いた炭はやはり1年後に交換。その後は捨てるのかといえば、No(ノー)。いったん天日で干したうえで、家屋の床下が土間の部分に投げ入れるとのこと。湿気や土間特有のにおいをとるのに効果があるそうです。
 光一さんのえのき栽培へのこだわり、そして暮らし万般の工夫がよくわかると思います。
 
 今回のレポートはここまでです。

古道・志久見街道の最近の様子

7月13日に古道歩きツアーが開催されます

 小滝集落の「小滝古道物語」さんが7月13日(日)に「深緑の古道を歩こう! 志久見街道」ツアーを開催されます。その案内文の一部を引用させていただきます。
 
     日本一の大河、千曲川(信濃川)沿いを間近に見ながら、ノン
    ビリと深緑の中、季節ごとにおもむきを変える古道を歩く感触の
    よさを満喫してください。
     自慢の美味しい「小滝米」と郷土料理を囲んでの地元の人達と
    のお昼もワクワク、楽しみの一つです。ゆっくりと流れる時間を
    1日感じてみませんか。お仲間誘いあっての参加をお待ちしてお
    ります。

 一人でも多くの方にご参加いただけますよう、21日朝、最近の古道の様子を撮影してきました。

小滝の人たちが古道を整備されています
 
 写真は午前6時すぎに撮影したもの。古道がいちばん狭くなる箇所で、冬の積雪による道の傷みを修復する作業がおこなわれていました。鍬をふるっておられるのは中沢日出男さん、後ろ姿は樋口利行さんです。
 幾日もかけて、小滝の人たちが朝5時から7時の間、草刈りや道の修復をされているのです。みなさんが7月13日にお越しになるときは歩きやすい道に整備されていることでしょう。

 志久見街道への入り口付近
 古道歩きは小滝集落に集合の後、参加者みんなで志久見集落まで移動し、志久見集落側から歩きます。
 その志久見の古道入り口付近の様子がつぎの一枚です。

 ブナ林がとても爽やかです。
 近くで馬頭観音がみなさんを出迎えます。


絶景ポイントからの眺め
 古道歩きの全行程のちょうど半ばあたりに“絶景ポイント”があります。

 撮影時は関田山脈に靄(もや)がかかっていましたが、それでもいい眺めです。千曲川がゆったりした流れと瀬での激しい流れの両方を見ることができます。
 
カモシカと出会う
 絶景ポイントのすぐ近くに地震のつめ跡をまざまざと見せる場所がありますが、そこに行ったとき、ガサガサという音が。何ごとかと見ると、地震でできた断崖絶壁をカモシカが走り下りていきます。瞬時のことでカモシカの姿を撮影することはできませんでしたが、足跡はくっきり。
 
カモシカの足跡

               
カモシカが下っていった断崖
 
さまざまな木々、花と出会う
 春の花は終わっていますが、不思議な木々や花に出会うことができます。
 私は勉強不足で何という小木なのかわかりませんが、葉から赤い芽がたくさん出ています。半月以上先の7月13日にはどんな様子になっているのか、楽しみです。


 また、大免沢川を越えて小滝集落にかなり近づいたところにもう一つ、馬頭観音がありますが、ここには非常に貴重なタマアジサイがあります。すでに蕾(つぼみ)がみられました。ツアーの頃にはかわいい花を咲かせていることと思います。



 
千曲川の音も素敵
 先に紹介した“絶景ポイント”から小峠(ことうげ)と呼ばれる道を下ります。深緑の中をゆったりした気分で歩きます。

歩いているのは整備作業中の樋口正幸さんと樋口武夫さん
 
 しばらく峠を下っていくと、それまでの静寂を破るかのように激しい水の音が耳に飛び込んできます。そして木立の間からつぎのような景色が飛び込んできます。

 千曲川との再会です。このあたりは“三段の瀬”と呼ばれるところ。
 昔、千曲川の舟運があった頃、いちばんの難所とされたところです。
 
 ここから先は小滝集落まで千曲川沿いを進みます。その流れはかぎりなくゆったりしています。

 
古道ツアー参加要項
 7月13日のツアーの要項は以下のとおりです。
    と き  7月13日(日)
    集 合  栄村小滝集落
    参加費  3,000円(昼食交流会を含む)
    定 員  40人  申込締切7月1日
    申込・問い合せ先 小滝古道物語事務局:樋口正幸
         メール:ji0xsw@miy.janis.or.jp
           FAX:0269−87−2332
         携帯:090−4544−5807
    スケジュール
      受付 8:00〜8:30
      古道歩き
      昼食交流会 12:30
      解散 15:00

是非、ご参加ください。

大庭君家(おおばくんち)のえのき


 
 圧倒的な質量感! 1株300gあります。そして、新鮮な美味さ。大庭家から消費者に直送される場合は、この1株が丸ごとパックされて送り届けられます。
 いまの季節は、バーべキューや肉巻き(えのきをポークやベーコンで巻いて焼く)が最高です。

 この“大庭君家のえのき”がどのようにして栽培されるのか、そのすべてを見せていただけることになりました。
 今回は、「釜詰め」という作業の翌日に行われる「接種」(種菌つけ)の作業行程を見せていただきました。写真はすべて6月19日撮影です。(大庭さんの作業予定と私の取材可能日との関係で、取材可能になった行程から順次、レポートしていきます)
 
種菌(たねきん)

種菌が入ったビン


種菌の頭の部分を少しかき落す(雑菌混入を防ぐため)


準備が整った種菌(今日は32ビン)

接種(せっしゅ:種菌つけ)

昨18日に釜詰めされ、その後冷やされた培養基


接種はこの機械で行われる。
機械の上方に種菌をセットし、


機械左から培養基を送り込むと、機械が培養基の蓋を開けて種菌を入れ、再び蓋をして機械右へ送り出してくる。





培養基の上部に種菌が入った後の培養基


接種された培養基は接種室とは別の培養室というところに運び込まれ、そこで27日間、培養される。
培養室は
 
と、温度12〜13℃、湿度79%前後に維持されている。

 「接種」作業は約40分ほどで終わります。
 ある意味で最も大変なのは、「接種」が終わった後の、「接種」用の機械などの掃除だそうです。時間をかけて丁寧に行わないと雑菌の発生を招いてしまうからです。機会があれば掃除の様子も撮影したいと思います。
 また、「雑菌」についての大庭さんの考え方について伺い、レポートすることもやりたいと思っています。
 
 えのき−菌茸栽培は栄村の重要な産業、復興の鍵を握るもののひとつです。
 大庭君家のえのきを是非応援してください。
 次回は「釜詰め」の様子、培養室に入れられた培養基の変化の様子をレポートしたいと思っています。

 なお、「大庭君家のえのき」についてのお問い合わせは、
aokura@sakaemura.net
へどうぞ。
 


配達日誌6月15日〜19日

15日(日) 今日はほぼ一日中を原向集落で過ごした。いわゆる「田休み」行事等への参加・取材だ。たいへん勉強になった。今日のことは、別稿としてまとめて、次の「復興への歩み」に活かすとともに、ブログでは先行して公表したいと思う。
 夕刻、妹背木(いもとぎ)のトマト畑で頼之さん一家の「マルチすそ広げ」の作業に出会い、作業の様子を見せていただくと同時に、いろいろとお話を聞かせていただいた。奥さんから「私はサラリーマン家庭育ちで、元OL。農家に嫁に来たというつもりはなかった」、「私が嫁に来た頃はおとうさんは働きに出ていて、三ちゃん農業だった。こんな大きな農家になるなんて思いもよらなかった」とお聞きしてビックリ。詳しくはまた「追っかけ:頼さんのトマトづくり」で。

手作業でマルチのすそを広げる春美さん

 朝から好天で気温もぐんぐん上がったが、なんともさわやかな一日であった。
 そう、そう。原向からの帰り、天地(てっち)で見上げた空は最高だった。何枚も撮ったが、その中から1枚。

 
16日(月) 長瀬から極野、天代を廻る。当部で草取り中の梅子さんとちょっとおしゃべり。さらにソヨさんのお宅の前で下のような様子が。


 お聞きすると、ガマを干しているもの。これで「ガマの草履」を作るのだそうだ。藁草履と比べて、ごみが出にくく、室内履きにむいているとのこと。下の写真に写っているのは右が布草履、左は藁草履。いずれもけっこうの注文がくるとのこと。こういう技を継承していくことも大事だ。


 朝方、青倉を通っているときに移した1枚もいい光景。


 中野集落での、あるとうちゃんとの「一服」も楽しいひと時だった。

17日(火) 今日もずいぶん暑かった。午後、所用で訪ねたあるかあちゃんに、「帽子をかぶったほうがいいよ。頭まで日焼けしているよ」と言われた。自分自身でもそう思っていたのだが、帽子を被るという習慣があまりない(冬は雪よけに帽子を被るが)。夕刻、津南町に行った折にさっそく帽子を購入。明日から被る。
 泉平で今季初めてズッキーニの出荷作業に出会った。武田充俊さん。花の名前を伺いに奥さんをお訪ねしたのだが、ご不在。目をふと左にやると作業所で出荷作業をされている充俊さんが目に入った。

箱詰め作業中の武田充俊さん

 ご挨拶し、少しお話を伺った。「値はどうですか?」、「いいよ。1ケース1100円だ」。この場合の1ケースとはMサイズのもの。出荷用の指定された箱に11〜13本入るもの。だいたい11本なので、1本あたり100円ということになる。たしかにいい値だ。「でも、このままで行くとは思わないよ」と。たしかにそうだろう。でも、いいズッキーニだ。出荷価格1本あたり100円が維持されることを切に願う。


 折を見てズッキーニ料理も紹介したいが、栄村のズッキーニはたいへん美味しい。ズッキーニ産地としての名をもっともっと有名にしたいものだ。
                       
18日(水) 今日は最近では珍しく4時頃に起床できた。以前は4時、5時の起床は当たり前だったが、最近はまったくダメ。しかし、6月に入った頃から意識的にペースダウンを心がけてきたせいか、最近は背中が張ることもそんなになく、蓄積疲労が少しとれてきているのかなあという感じ。
 そういうわけで、朝早く起きることができたので5時すぎから中条川にむかった。最初はいちばん下の砂防えん堤のところ、続いて、トマトの国横からセルダム(減勢工)の近くまで。そして、森集落の開田を上がり、崩落地点へ。詳しいレポートは他の機会に譲るが、正直に言って絶望的になるような惨状である。
 その後、山を下りる途中、開田の畑で草取りをされている桑原千恵さんと出会う。6時半頃のこと。いろいろ楽しい話ができ、間引きされた“はつか大根”を1株いただいて、その場でむしゃむしゃと食べた。最高に美味い。
 今日はそういうわけで非常に気分がよかった。夕刻には妹背木の樋口和久さんの牛舎を訪れ、長男の大樹(ひろき)さんが3月頃に買いつけて来られた牛2頭と約2か月ぶりに対面。随分と大きくなっていた。


 そして、大樹さんと最近結婚されたばかりの佳織さんをご紹介いただいた。とても素敵な方です。「大樹さんが木曽で修業していたところで知り合った人」という噂を聞いていたが、佳織さんご本人にお聞きすると、「いえ、私は新潟市の街中で育ち、農業とまったく縁のなかった者です」とのこと。でも、牛舎での仕事にすっかり慣れ、「臭いもまったく気にならない」とのこと。栄村の将来に希望が持てる話を聞かせてもらった。
 
19日(木) 午前中、6月定例村議会を傍聴したのだが、後味が悪かった。というのも、本会議を終了したところで、議長から「10分間の休憩の後、全員協議会を開きます。これは議事運営委員会の決定により非公開とします」と告げられたのだ。なにか非常に感じが悪い。その後、Webで市町村議会の全員協議会とはどういうものかを調べた。その結果はまた別の機会に紹介したいが、非公開のことが多く、他の自治体でも問題視されているケースが結構あるようだ。
 この9カ月間ほど議会を傍聴してみて、大事な施策や予算の話は全員協議会の場で話され、本会議は形骸化していると思わざるをえないところがある。議会開会中に全員協議会に切り替わることもよくあるが、その場合は少なくとも全員協議会が行われているという事実そのものはわかる。しかし、議会閉会中に全員協議会が行われることも多く、その場合は村民にそのことが告知されることはない。こういうことをガチャガチャ言うと、嫌がられるかもしれないが、おかしいものはおかしいと思う。
 

桑原千恵さんの畑

 18日の朝6時半頃から20分余り、森集落の山の上にある開田の中の畑でとても楽しいひと時を過ごしました。
 この日、4時頃に起きた私は5時すぎから中条川の土石流災害現場を久しぶりに撮影してまわったのですが、中条川上流の崩落地点から下りてきたとき、6時25分頃、畑で草取りをしておられる桑原千恵さんと出会ったのです。


朝早く、電動シニアカーで森集落の山の畑に上がり、草取り
などをされている(6月18日6時25分撮影)


草取りの手を休めて、いろんな話を聞かせて下さる千恵さん

 次の写真は千恵さんが間引きをされている“はつか大根”です。根が赤いものと白いものとがあります。




 とても魅力を感じ、「千恵さん、1本食べさせていただけますか」とお願いすると、快く了解してくださいました。当初は泥を手で落とすだけで食べるつもりだったのですが、すぐそばを流れる水路で洗えばいいやと思い、洗ったものが次の写真。


 大根部分から葉まですべてむしゃむしゃと一気に食べてしまいました。最高に美味しい! 大根特有の辛みがほんの少しありますが、それがいい。サラダなどに添えると最高だと思います。
 千恵さんのお孫さんたちは、「森の畑に行く時はおやつはいらない」と言って、畑の野菜を採ってどんどん生で食べられるそうです。
 
 次の写真はチンゲンサイ。まだ収穫には間があるものですが、村の中国料理店「樓蘭」さんのために栽培されています。



 
 葉が少し虫に食われていますが、これは無農薬の証し。
 
 ところで、畑のところどころに花が植えられています。私が「畑のところどころに花が植わっているのもいいですね」と言うと、「虫除けのためのものですよ」と言われ、ハッと思い出しました。埼玉県小川町の有名な有機栽培農家が紹介された番組で、「虫が嫌うハーブなどを野菜の近くに植えると虫除けになる」と話されていたことを。



 もう少し上にある畑では、ジャガイモがきれいな花を咲かせています。



紫の花はメークイーン


白い花は男爵
 この畑にはありませんが、もうひとつ、キタアカリという品種があり、それはピンクの花を咲かちでせるそうです。千恵さんに教えていただきました。そういえば、村のあちこちで見るジャガイモの花にはピンクのものもあるように思います。
 
 こういう野菜の話をお聞きしながら、いつの間にか、話題はひと昔前のことに。
 
     「この山の上に長倉というところがあってね、そこに
      畑や田があったんですよ。国有林を借りて、ナメコ
      の栽培もしていた。あんな山の上まで歩いて通って
      いたのです。」
     「千恵さん、時の流れが今とは違ったんじゃないです
      か。」
     「そう、もう20年も前に中国の学生さんがわが家にホ
      ームステイしたことがあったんですが、その時、その
      学生さんが『日本には時間がない』と言っていました。」
 
 私は、ミヒャエル・エンデの『モモ』(時間泥棒のお話)を思い起こしながら、深く納得していました。
 
 電動シニアカーで山の上までやって来て、丁寧な草取りをやっておられる千恵さん。そこには現代日本社会が忘れかけている大事なものがあると思います。そして、ここに栄村の価値があるのだと私は考えています。
 

しつけ祭り、せぎなげ、そして野天の総会〜6月15日、原向での楽しい体験

 「復興への歩み」を配達する中で、15日に原向集落の「田休み」行事があると知り、「少し草刈りのお手伝いもさせてもらって、原向の集まりの様子を拝見したい」と思い、出かけました。

若い人もいて、草刈りはあっという間に片付きました。
 「原向は高齢の一人住まいの方はおられるので、公民館周りの草刈りはきっと手が不足して大変だろう」と勝手に想像していたのですが、30分足らずであっという間に片付きました。驚きです。
 平素は集落外で仕事をしている40〜50歳代の若い人が3人いたのが大きいと思いますが、ある意味でそれ以上に大きかったのが70代、80代の人たちの元気よさと熟練度=手際のよさだったと思います。







あっという間にきれいになりました

 “しつけ祭り”
 さて、草刈りの後、「総会」に準じる会合が20分間ほど行われた後、お酒、汁(豚汁)などが用意され、“しつけ祭り”となりました。11時すぎのことです。




 まあ、簡単にいえば「田休み」の行事なのですが、“しつけ祭り”というのです。私がこれまでに知っているいろんな集落の「タケノコ狩り」の集まりとは呼び方が違うのです。そして、出てくる汁も豚汁であって、タケノコ汁ではありません。
 みなさんにお尋ねすると、「ええ、田休みなんですよ」とお答えになる。「田植えは稲を“さくつける”のだから、そこらあたりから“しつけ”という言葉が出てきたんじゃないか」。雰囲気はなんとなくそんな感じなのですが、いまひとつ納得できず。
 
 午後、後で書く「中山間地域直接支払制度」の集まりで長瀬の人と出会い、「“しつけ祭り”って知っていますか」と尋ねると、「ああ、おらもさっきやってきた」と言われます。長瀬の場合は、お宮に集合してみんなで般若心経を唱えるそうです。飲み会はその後。
 でも、やはり、なぜ“しつけ祭り”というのかの疑問は解けないまま。
 帰宅途中、百々木出身のとうちゃんに尋ねると、「懐かしい言葉だね」との答え。野田沢のおとうさんに尋ねると、「知らないな」。(さらに翌16日に箕作の人に聞くと、「ああ、やっているよ。田休みとは別。いまは(農業改善組合の)役員会の飲み会になっている」とのこと)
 夜、Webでいろいろ調べました。

田植えのことをシツケという
 愛媛(えひめ)県では田植えのことをシツケというそうです。そして、田植え終了後に人々が寄り合って苗の順調無事な成長を祈願する儀礼をシツケゴモリというそうです。
 また、愛媛県の北宇和(きたうわ)郡日吉村では、田休みをシツケ祝というそうです。(南信州での田植えをシツケと呼ぶところがあるようです)
 そして、ここから先は少し面倒な議論になりますが、“しつけ”という言葉は、もともとは、「未だ充分にその方向性の固定されていない状態のものを一人立ちできるように導き矯正していく」という意味だそうです。
 だから、まだ充分に成長していない苗を田に植えつけ、順調に育つようにしていくこと、すなわち田植えは“シツケ”ということになるのですね。
 私は納得です。
 
驚いた“なげ”
 「しつけ祭り」という言葉にはこのように随分と戸惑いましたが、ある意味でそれ以上にわからなかったのが、「せぎなげ」という言葉。
 これは「しつけ祭り」の前の会合で出てきたもの。「水路に何かあったとき、現場にすぐに行けるよう、草を刈っておいた方がよい。一回、“せぎなげ”を入れてはどうか」という提案の中で出てきました。「ああ、水路普請のことだな」とは理解できたのですが、水内や西部地区では普請のことを「なげ」と言う慣習はないと思います(箕作の人も知らないと言っていました)。             
 ところが、やはり長瀬の人に尋ねると、「ああ、“なげ”ね。そう言うよ」と言われます。


“せぎなげ”を提案された区長の平塚忠勝さん

 これも夜、調べました。Webでは、“しつけ”のようには簡単に出てこなかったのですが、長野県在住者で「山奥から発信しています」という人のブログにこんな記述がありました。
「集落の共同作業を忘れていて土曜の朝カッ飛んで帰省。イデソウジちゃうちゃう「せぎなげ」共同水路の草刈りです!」
 このブログ発信者ご自身がひょっとして栄村の東部地区あたりのご出身なのかもしれませんが、とにかく「普請」を「なげ」と呼ぶ地域はたしかにあることがわかりました。
 栄村で暮らし始めて8年目、“しつけ祭り”と“なげ”、二つ賢くなりました。

今度は花植え
 “しつけ祭り”が終わり、帰ろうとすると、知り合いの人から「つぎは2時半から、別の集まりがあって、『中山間地』の関係で、午前とは別の顔ぶれも揃いますよ」とお誘いを受けました。カメラのバッテリーが切れたので、その交換に家に戻り、2時25分頃、原向のお墓のそばの集合地点に行ってみました。すでにみなさんお集まりで、作業の打ち合わせが始まったところでした。


1時間で草刈り−土起こし−畝づくり‐マルチ敷き−花植えの全部が終わる
 「中山間地域等直接支払制度」の原向団地の「多面的機能」の事業で花を植えるんですね。もう15年目だそうです。
 写真でご覧ください。




















驚きの野天の総会
 さて、花植えが終わったのが3時半。解散かと思いきや、みなさん集まって来られて、日陰に腰をどっしりおろされる。
 お茶とともに、議案書が一人一人に配布されます。
 そして、いよいよ総会開始。
 まず、代表の石澤巌さんがご挨拶。続いて、事務局の斉藤保さん(長瀬集落)が1号、2号、3号の議案を順次提案され、若干の質疑を経て、全員一致で議案が承認されました。



 総会はまさに総会という名にふさわしいきちっとしたものでした。
 それにしても野天での総会というのには驚きました。
 終了後、私は総会が野天で開かれたことを公表してもいいかどうか不安に思い、事務局の斉藤保さんにお尋ねしました。「ええ、公表して大丈夫ですよ。開催場所はどこでもいいので。毎年、作業の後に作業所などでやっています」とのこと。
 たしかに農業に関わる会議なのですから、なにも冷房を効かせたような部屋でやる必要はないですね。
 まあ、それはともかく、初体験・初知りのことが多くて、非常に楽しく、有意義な一日でした。

東部水路について
 原向の会合で坪野からの水路の“せぎなげ”が話題になったこともあり、中山間地の総会の後の雑談で東部の水路(体系)のことが話題になりました。
 水路に詳しいはずの人から「東部の水路の全体像がわかっている人はいないと思う」と言われてびっくり。じつは私は今年の初め頃から東部の水路体系に非常に関心を持ち、栄村史を調べたり、水路沿いに歩いてみたりしています。
 「今のうちにきちんとデータを集約しないと、わからなくなる」とのことですので、私も微力ながら努力したいと思っています。みなさん、色々とご存知のことをお教えください。

「長瀬新田」の名が文書(もんじょ)に初めて出るのは元禄11年(1698年)の「箕作村御国絵図覚帳」
 これは『栄村史堺篇』に出ています。そして、『村史』には元禄11年よりも「22年以前」にできたと書かれていて、元禄11年から22年前の延宝5年(1677年)に創立されたことがわかるとしています。

水路の歴史
 同じく『村史』には「北野新田、長瀬新田を潤おす坪野古堰とよばれる用水路の水は志久見村へも用水を供給しており、これと同時に松平遠江守によって開さくされた内池堰の開通とあいまって、志久見村の新田開発をも促した」と書かれています。ここに出てくる「坪野古堰」はいわゆる「坪野下堰」のことでいまも使われているものです。
 
坪野下堰が坪野田尻で原向方面にむかうところ 
(今年4月16日撮影)


原向から水路沿いに歩き、坪野の田んぼが見え始める所
(今年5月4日撮影)
 こんな感じでいろいろと調べていきたいと思っています。
(了)

追っかけ:頼さんのトマトづくり


 写真ではうまく写せていないようですが、頼之さんの顔からは玉のような汗。シャツも汗で濡れています。時刻は15日(日曜日)午後5時32分。まだトマト畑での作業の真っ最中。
 ご家族4人総出で、「マルチのすそ広げ」の作業です。奥さんの春美さんは手作業でマルチのすそを広げておられます。娘さんの麻子さんは広げたマルチのすそに土をのせる作業を主にやっておられる様子。一哉さんも同様。
 頼之さんは「日本中で一台しかない」(春美さんの言葉)道具ですそ広げをされます。
 その道具がこれ。


その使い方は…


引っ張っていくのに相当の力がいるようです。





ご家族4人で作業されている様子

 この畑は妹背木(いもとぎ)というところだが、ここには早生(わせ)が植えられている。
 成長が早く、マルチのすそ広げが終わると、すぐにも「枝分け」の作業が必要となる。他の畑のマルチすそ広げもやらなければならないのだから、作業スケジュールがびっしりだ。


マルチのすそ広げが行われた畝


大きく育った早生の苗

さかえむらトマトジュースをご希望の方は、
aokura@sakaemura.net
までご連絡を。




配達日誌6月11日〜14日

11日(水) 予定を変えてNo.223を執筆・編集・印刷。12日から配達開始。

12日(木) 6月7日の日誌で紹介した石澤チヱさん宅を訪ねる。「上がりなさい」ということで茶の間に上げていただく。「じゃあ、お茶のみに集めよう」ということで早速何軒かに電話される。そしてチヱさん以外に3人の方が来られて、話に花が咲く。

 そこで撮ったのが上の1枚。距離の関係でお一人が写っていないが、とくにカメラを意識されることもなく、私のこれまでの体験では最もお茶のみらしいお茶のみの写真が撮れたという感じ。
 チヱさんが出して下さったアスパラのゴマ和えが最高に美味しかった。クルミが入っているらしい。アスパラは都会のスーパーでは値段の高いもの。そのアスパラがこれだけの分量、大盛りで出される。むらのお茶のみはなんとも贅沢。


 ところで、チヱさん宅を昨日、「以前、農協で布団を購入されていますね」と言って、変な男2人が訪ねてきたという。チヱさんはしっかりしておられるので被害はなかったが、家に上がり込んであきらかに挙動不審だったという。そういうこともあってか、私と入れ替わりに“受け持ちさん”(村では駐在さんのことをこのように呼ぶ)がやって来た。

13日(金) 昨日は一日中雨だったが、夜10時すぎだったか、屋根を叩きつける音が激しくする猛烈な雨。一時停電もした。すでに寝着に着替えていたが、「えっ、今からひょっとすると避難指示が出るんじゃないか」と不安に思った。中条川問題は深刻。
 青倉のあるお宅で外に出ておられたかあちゃんから、「粽を作ったんだ。食べていかないかい?それとも持って行く?」と聞かれ、寄らせていただくことに。粽も美味しかったが、続けて出てきたものに驚いた。冷やし甘酒。じつは私はあまり甘酒というものを好まないのだが、これがじつに美味しい。炊飯ジャーを使って簡単に作れるそうだが、熱中症に非常に効き目があるとのこと。Webで調べると「飲む点滴」と言われているそうだ。これは写真を撮っておくのだったと後悔。

 最近、花を話題にすることが多いが、5日に一部のみ開花していた花が今日は満開。


 
 家に戻ってからいろいろ調べると、どうも「ゼニアオイ」というものらしい。そうだとすれば「地中海原産の帰化植物」らしいが、いまのところ白鳥のあるお宅のそばの1ヵ所だけ。
 
 私が花にこだわるのは、種や苗を買って育てる園芸花ではなく、少しは人為的な要素も介在しているかもしれないが、野生化し、どんどん自生していっている花がなんとも綺麗で、「村じゅう丸ごと植物園」と言えるくらいに村の花が豊かであることを、村の“売り”にしたいなあという思いがあるため。花に関する知識はあまりないが、いろんな人のご協力を得て、「栄村花図鑑」のようなものを作れれば最高に楽しいなと思っている。

14日(土) 今日の午前中、「トマトの国」の近くで北信州植樹祭というものが開催された。参加した知り合いの子どもの写真を撮りたかったので植樹そのものが始まる11時頃に現場へ行った。写真は式典の終わり際のものだが、会場の裏手に中条川崩落地点があるのを意識して撮った。こういう場所で植樹祭が開かれるということになにか違和感を覚えるのだが、過敏すぎるだろうか。


 会場脇に着いたとき、駐車整理をしてくれた人に見覚えがあって、「何回かお会いしたことがあるように思うんですが」と尋ねると、県地方事務所林務課の人。崩落地点で現在どのようなことをやっておられるかを尋ねた。仮設工事用道路がやはりクラックで危険で、上方に新しい道をつけるとのことだった。調査を担当する会社が決まったところだで、まだ工事は先のことだそうだ。正直なところ、あの現場に行くのはおっかないが、近いうちに様子を見に行こうかと思う。