東山道の面影を追いながら・・・
- 栄村の魅力・風景
- 2014.06.29 Sunday
「東山道(とうざんどう)の面影を追いながら、・・・」栄村の古道・旧道を歩く
6月28日の午前7時24分、飯山線桑名川駅に男女3名のグループがハイキング姿で下り立たれました。須坂市の市川美津夫さんら「街道を訪ねる会」の人たちです。
古(いにしえ)の道の面影を追いながら、栄村・森まで旧道を約14km歩かれるのです。
西大滝のお地蔵さんの横を歩く市川さんら
「東山道(とうざんどう)」って何?
栄村内の案内を依頼されて私も同行したのですが、「東山道」という名は初耳です。江戸時代の五街道で江戸と京を軽井沢や木曽を経て結ぶ東山道(中山道(なかせんどう))ならば知っていますが、それでは北信濃・栄村とは関係ありません。
この日、テーマになっていた「東山道」は、「主に大化前代律令前の古東山道のこと」だそうです。つまり西暦645年の大化の改新よりも前の時代のものなのです。そして「大和朝廷の蝦夷(えみし)の討伐・屯田兵(とんでんへい)・柵(きの)戸(へ)移動の道」だったそうです。
*柵戸とは、朝廷が蝦夷(現在の東北地方)討伐・征服の
ために設けた拠点(城柵)に配置された人たちのこと。
信濃の国からも派遣された。
白鳥が重要なポイント
市川さんからいただいた資料によれば、
「多古駅家(長野市三才)あたりから千曲川の左岸に沿って
進み、栄村の白鳥から深坂峠にかかって頸城郡に下り、……
三島駅(柏崎市)に至り、……北陸道を北進し淳(ぬ)足(たり)
柵に通じていたと考えらえる」(淳足柵は現在の新潟市沼垂
(ぬったれ)
白鳥が重要なポイントになっていたのですね。『村史』に出てくる白鳥峠道のルーツは古代にまで遡(さかのぼ)るのですね。これで、白鳥という地名の由来を伝える伝説の意味も少し理解できるようになりました。
その伝説とは、白鳥集落の方はよくご存知ですが、
「日本武尊(やまとたけるのみこと)が信濃の国、越後の国を征
討の折、一行は信越の国境(くにざか)いの野々海峠の山中で難
渋した。この時一羽の白鳥が舞い来たりて尊の弓に止まり、こ
の白鳥が一行の前に先へと飛んで誘導し、沢伝えに南下して部
落まで至った。以来この部落に白鳥の名が残り、白鳥の南下し
た沢を白鳥沢の名称で呼び伝えられている」
というものです。
白鳥沢。現在、砂防ダムの工事中。
(写真中央を白鳥沢川が流れている)
善光寺街道の面影を追いながら森まで歩く
「東山道」の面影だけを追うのであれば、白鳥で終わりということになりますが、市川さんらは、ここからは江戸時代に善光寺街道と呼ばれた古道の名残を求めつつ、主に旧道(明治24年に開通した県道谷街道、後の大正9年に国道昇格)を辿りながら森宮野原駅まで歩かれました。
『村史』の記述を紹介しながら、市川さんらの旅を追います。
<白鳥集落>
「西大滝から白鳥に入り、白鳥公民館裏で橋場川を渡り、加治
屋敷、荒戸原の家並にそって豊栄分校前に達する。ここから樽
坂の難所をさけて一気に峯へ登り、平滝地区字(あざ)上リット
通称城平を下って…」
「加治屋敷」という地名(字名)ですが、現在、国道117から白鳥沢に入っていくところの飯山線の踏切には「鍛冶屋敷踏切」と書かれていますね。
市川さんたちは「加治屋敷」の手前から国道117の歩道を進み、旧豊栄小学校をご覧になりました(下写真)。
旧豊栄小前から山の方を見たのが次の写真イです。山に入っていく道(農道)が見えます。ここを上り、写真右側の峯を越えると平滝に出ます。その平滝に出る地点が写真ロです。私は6年ほど前にこの道を辿ったことがあります。
写真イ
写真ロ(写真左下は白鳥大橋。中央の坂道が白鳥から峯を越えてきた道)
<樽坂の難所>
『村史』の記述に「樽坂の難所」という表現が出てきましたが、ここにスノーシェッドが出来たのが昭和11年のこと。国道117号線の改良以降、道路としては使われていませんが、《歴史遺産》としての価値があるものだと私は思います。現在、今年3月末の融雪災害がスノーシェッド内の道路の一部がぬけ、復旧工事が予定されています。
スノーシェッドの正式名称は「樽坂雪覆道」。6月13日、その様子を撮影してきました。
入り口上部に「樽坂雪覆道」の文字が刻まれている。6年ほど前
に訪れた時はすべての文字がはっきり見えたが、いまは一部が剥
がれ落ちてしまっている。
スノーシェッドの壁には苔むした箇所がありますし、天井部には隙間があいているところもあります(下写真)。それだけに《歴史遺産》的な価値が高いと思うのですが、いかがでしょうか。
天井に隙間ができた箇所
融雪災害箇所
<平滝集落>
再び、『村史』の記述から。
「平滝地区字(あざ)上リット通称城平を下って鉄道線
路と国道字(あざ)かち川橋の中間点で川を越え、才ノ
神下から字(あざ)田原、字(あざ)宮沢、字(あざ)中田、
元屋敷等の家並を縫い、字(あざ)馬場字(あざ)びんご
に至る。ここはその昔平滝渡船場があったが、街道は
さらに字(あざ)原、字(あざ)下東原では千曲川端を伝
い、関屋新聞屋附近から少し登って二俣川を渡り、字
(あざ)宮地、清水河原では千曲川の急流で足を洗われ
るような危険をおかして横倉区八丁に至る。(ずっと
昔は、清水河原の難所をさけて峯越えで横倉に抜けた
という)」
善光寺街道は現在の国道117号線よりも下の千曲川寄りのところを通っていたということですね。市川さんたちは道直しで整備された田んぼの中の道を進まれました。(その途中、「フランセーズ悠さかえ」さんにトイレを拝借しました。有難うございました)
ところで、『村史』に出てくる字(あざ)名、平滝にお住まいの方でもわかる方は少ないかもしれません。以前に役場からご提供いただいた「字(あざ)切図(きりず)」というものの平滝部分を参考に紹介しておきます。
左端に「上りと」とあるのが、『村史』にいう「上リット」だと思われる。少な
くとも「田ヤ」、「宮沢」、「中田」、「馬場」、「ビンゴ」、「下東原」、「清
水河原」、「八丁」の名は読みとれる。
市川さんたちはフランセーズ悠さかえの所から国道117に上がり、しばらく国道117を進んで、ガソリンスタンドを越えたところで再び旧道へ入り、清水河原のスノーシェッドの中を進まれました。そして、「常慶院を訪れたい」というご希望がありましたので、百合居橋から常慶院までは私の車でご案内。常慶院の石段を登り切ったところでしばしの休息をとられました。
<横倉集落>
常慶院から百合居橋に戻り、横倉集落を進みます。『村史』には
「横倉駅前から農業倉庫の裏を過ぎ、村中の道を通り、長坂
から上り始めて山手へ入り、字下鳥屋から青倉区内横倉沢で
川を渡り…」
とありますので、現在の幹線村道ではなく、横倉集落内の家並に沿った道を進んでいただきました。
横倉・渡辺利正さん宅前を進む市川さんたち
<青倉集落>
市川さんらは横倉から青倉へは四ッ廻りに行くときに使う旧道を歩まれました。
その途中、横倉沢橋に手前で、四つ廻り水路のかけ口までご案内。
横倉沢川右手の山を示しながら、「ここの山を上って青倉にぬけたのですよ」と説明しました。
横倉沢川から上る山(実際に上ろうとするとかなり急峻(きゅうしゅん))
<福枚(ふくべら)峠>
また『村史』に戻ります。
「字うば久保地内を登り切り、字西坂ノ上の庚申塚前に達す
る。ここから下れば青倉であるが、この所は福枚(ふくべら)
峠と呼ばれる街道中の急坂であり、その昔は茶屋があって上
り下りの人々は汗を拭き一杯の粗茶でノドのかわきをうるお
し、駄賃馬に一息入れさせたという。」
青倉に入った市川さんたちを軽トラで、横倉沢川を渡って上ってくるところ、そして庚申塚に案内しました。
山を上り切った後、字西坂ノ上に下る道
(現在も農道として使用されている)
田んぼと写真中央の樹木の間を横倉沢川が流れる
写真右手の小高い所が庚申塚。その手前、白い花が
咲いているところに、「左ぜんこうじ、右山道」と
刻まれた道標がある。
現在の青倉・西山田への農道は車を使うようになってから出来たもので、かつての福枚峠に比べればなだらかな坂道になっています。
<青倉集落>
さて、市川さんらは青倉集落に戻り、集落の中を進まれました。山から下ったところから集落中央あたりまでは善光寺街道の面影はほとんどありません。しかし、青倉公民館を過ぎたところからは善光寺街道の道形が残り、現在も街道沿いの数軒のお宅の作業道として生きています。
『村史』では「繊法(せっぽう)塚(づか)」と記されているところ、
高橋友太郎さん(屋号「千本(せっぽう)塚(づか)」)宅前を進む
市川さんたち
<森集落>
やはり『村史』の記述を紹介しましょう。
「ここ(繊法塚)から一気に中条川に下って川を渡り再び上
って中条部落を左手に過ぎ、国道筋を行くこと300メートル
程で大沢から森用水堰の端を通り、神社前で右に折れ、番屋
前から用水路にそって松屋商店裏を通り、千曲川の流れの音
からヒントを得たかと思われる字ドドメキを過ぎて、松葉前
で左に曲り、的場頭、的場という歴史的地字名のところを過
ぎ十王堂前(村の定型として十王堂は村の中央なり、森では
何かの都合でここに移されたものであって、現に堂ノ後とい
う屋号の家は別の所にあり)の小坂を下って、現高橋木工所
前から登って鉄路を横切り、庚申塚で堂原地籍に入る。左館
跡にそい字原の畑中を過ぎダラダラ坂を下ること3、40メー
トルで信越国境字境で越後国羽倉地区に入る」
私の勉強不足で森の字(あざ)名はよくわかりません。市川さんらはお宮の所在を確認された後、Yショップ前の信号を左折して、森宮野原駅に到着されました。
桑名川からここまで約14km。市川さんは4月26日に飯山駅から戸狩野沢温泉駅まで、つづいて5月11日には戸狩野沢温泉駅から桑名川駅まで、計22kmを歩かれ、今回で「東山道の面影を追いながら…」という歩き旅のシリーズが完結したとのことです。
歴史資源と豊かな自然を生かす“歩き旅”はなかなか面白い企画
4月末に市川さんからお手紙をいただき、案内を請われたとき、率直に言って驚きを禁じ得ませんでした。「えっ! 桑名川から森まで歩くの?!」と。
でも、結果からいえば、とても楽しい企画でした。桑名川から西大滝の間、初めて見る景色が多かったのも楽しかった。
藤沢と西大滝の間にて
歴史を訪ねる、しかもゆったりした気分になれる豊かな自然の中で。これは栄村の資源を生かす企画にできるだろうというのが率直な感想です。市川さん、楽しい機会をお与えいただき、ありがとうございました。
6月28日の午前7時24分、飯山線桑名川駅に男女3名のグループがハイキング姿で下り立たれました。須坂市の市川美津夫さんら「街道を訪ねる会」の人たちです。
古(いにしえ)の道の面影を追いながら、栄村・森まで旧道を約14km歩かれるのです。
西大滝のお地蔵さんの横を歩く市川さんら
「東山道(とうざんどう)」って何?
栄村内の案内を依頼されて私も同行したのですが、「東山道」という名は初耳です。江戸時代の五街道で江戸と京を軽井沢や木曽を経て結ぶ東山道(中山道(なかせんどう))ならば知っていますが、それでは北信濃・栄村とは関係ありません。
この日、テーマになっていた「東山道」は、「主に大化前代律令前の古東山道のこと」だそうです。つまり西暦645年の大化の改新よりも前の時代のものなのです。そして「大和朝廷の蝦夷(えみし)の討伐・屯田兵(とんでんへい)・柵(きの)戸(へ)移動の道」だったそうです。
*柵戸とは、朝廷が蝦夷(現在の東北地方)討伐・征服の
ために設けた拠点(城柵)に配置された人たちのこと。
信濃の国からも派遣された。
白鳥が重要なポイント
市川さんからいただいた資料によれば、
「多古駅家(長野市三才)あたりから千曲川の左岸に沿って
進み、栄村の白鳥から深坂峠にかかって頸城郡に下り、……
三島駅(柏崎市)に至り、……北陸道を北進し淳(ぬ)足(たり)
柵に通じていたと考えらえる」(淳足柵は現在の新潟市沼垂
(ぬったれ)
白鳥が重要なポイントになっていたのですね。『村史』に出てくる白鳥峠道のルーツは古代にまで遡(さかのぼ)るのですね。これで、白鳥という地名の由来を伝える伝説の意味も少し理解できるようになりました。
その伝説とは、白鳥集落の方はよくご存知ですが、
「日本武尊(やまとたけるのみこと)が信濃の国、越後の国を征
討の折、一行は信越の国境(くにざか)いの野々海峠の山中で難
渋した。この時一羽の白鳥が舞い来たりて尊の弓に止まり、こ
の白鳥が一行の前に先へと飛んで誘導し、沢伝えに南下して部
落まで至った。以来この部落に白鳥の名が残り、白鳥の南下し
た沢を白鳥沢の名称で呼び伝えられている」
というものです。
白鳥沢。現在、砂防ダムの工事中。
(写真中央を白鳥沢川が流れている)
善光寺街道の面影を追いながら森まで歩く
「東山道」の面影だけを追うのであれば、白鳥で終わりということになりますが、市川さんらは、ここからは江戸時代に善光寺街道と呼ばれた古道の名残を求めつつ、主に旧道(明治24年に開通した県道谷街道、後の大正9年に国道昇格)を辿りながら森宮野原駅まで歩かれました。
『村史』の記述を紹介しながら、市川さんらの旅を追います。
<白鳥集落>
「西大滝から白鳥に入り、白鳥公民館裏で橋場川を渡り、加治
屋敷、荒戸原の家並にそって豊栄分校前に達する。ここから樽
坂の難所をさけて一気に峯へ登り、平滝地区字(あざ)上リット
通称城平を下って…」
「加治屋敷」という地名(字名)ですが、現在、国道117から白鳥沢に入っていくところの飯山線の踏切には「鍛冶屋敷踏切」と書かれていますね。
市川さんたちは「加治屋敷」の手前から国道117の歩道を進み、旧豊栄小学校をご覧になりました(下写真)。
旧豊栄小前から山の方を見たのが次の写真イです。山に入っていく道(農道)が見えます。ここを上り、写真右側の峯を越えると平滝に出ます。その平滝に出る地点が写真ロです。私は6年ほど前にこの道を辿ったことがあります。
写真イ
写真ロ(写真左下は白鳥大橋。中央の坂道が白鳥から峯を越えてきた道)
<樽坂の難所>
『村史』の記述に「樽坂の難所」という表現が出てきましたが、ここにスノーシェッドが出来たのが昭和11年のこと。国道117号線の改良以降、道路としては使われていませんが、《歴史遺産》としての価値があるものだと私は思います。現在、今年3月末の融雪災害がスノーシェッド内の道路の一部がぬけ、復旧工事が予定されています。
スノーシェッドの正式名称は「樽坂雪覆道」。6月13日、その様子を撮影してきました。
入り口上部に「樽坂雪覆道」の文字が刻まれている。6年ほど前
に訪れた時はすべての文字がはっきり見えたが、いまは一部が剥
がれ落ちてしまっている。
スノーシェッドの壁には苔むした箇所がありますし、天井部には隙間があいているところもあります(下写真)。それだけに《歴史遺産》的な価値が高いと思うのですが、いかがでしょうか。
天井に隙間ができた箇所
融雪災害箇所
<平滝集落>
再び、『村史』の記述から。
「平滝地区字(あざ)上リット通称城平を下って鉄道線
路と国道字(あざ)かち川橋の中間点で川を越え、才ノ
神下から字(あざ)田原、字(あざ)宮沢、字(あざ)中田、
元屋敷等の家並を縫い、字(あざ)馬場字(あざ)びんご
に至る。ここはその昔平滝渡船場があったが、街道は
さらに字(あざ)原、字(あざ)下東原では千曲川端を伝
い、関屋新聞屋附近から少し登って二俣川を渡り、字
(あざ)宮地、清水河原では千曲川の急流で足を洗われ
るような危険をおかして横倉区八丁に至る。(ずっと
昔は、清水河原の難所をさけて峯越えで横倉に抜けた
という)」
善光寺街道は現在の国道117号線よりも下の千曲川寄りのところを通っていたということですね。市川さんたちは道直しで整備された田んぼの中の道を進まれました。(その途中、「フランセーズ悠さかえ」さんにトイレを拝借しました。有難うございました)
ところで、『村史』に出てくる字(あざ)名、平滝にお住まいの方でもわかる方は少ないかもしれません。以前に役場からご提供いただいた「字(あざ)切図(きりず)」というものの平滝部分を参考に紹介しておきます。
左端に「上りと」とあるのが、『村史』にいう「上リット」だと思われる。少な
くとも「田ヤ」、「宮沢」、「中田」、「馬場」、「ビンゴ」、「下東原」、「清
水河原」、「八丁」の名は読みとれる。
市川さんたちはフランセーズ悠さかえの所から国道117に上がり、しばらく国道117を進んで、ガソリンスタンドを越えたところで再び旧道へ入り、清水河原のスノーシェッドの中を進まれました。そして、「常慶院を訪れたい」というご希望がありましたので、百合居橋から常慶院までは私の車でご案内。常慶院の石段を登り切ったところでしばしの休息をとられました。
<横倉集落>
常慶院から百合居橋に戻り、横倉集落を進みます。『村史』には
「横倉駅前から農業倉庫の裏を過ぎ、村中の道を通り、長坂
から上り始めて山手へ入り、字下鳥屋から青倉区内横倉沢で
川を渡り…」
とありますので、現在の幹線村道ではなく、横倉集落内の家並に沿った道を進んでいただきました。
横倉・渡辺利正さん宅前を進む市川さんたち
<青倉集落>
市川さんらは横倉から青倉へは四ッ廻りに行くときに使う旧道を歩まれました。
その途中、横倉沢橋に手前で、四つ廻り水路のかけ口までご案内。
横倉沢川右手の山を示しながら、「ここの山を上って青倉にぬけたのですよ」と説明しました。
横倉沢川から上る山(実際に上ろうとするとかなり急峻(きゅうしゅん))
<福枚(ふくべら)峠>
また『村史』に戻ります。
「字うば久保地内を登り切り、字西坂ノ上の庚申塚前に達す
る。ここから下れば青倉であるが、この所は福枚(ふくべら)
峠と呼ばれる街道中の急坂であり、その昔は茶屋があって上
り下りの人々は汗を拭き一杯の粗茶でノドのかわきをうるお
し、駄賃馬に一息入れさせたという。」
青倉に入った市川さんたちを軽トラで、横倉沢川を渡って上ってくるところ、そして庚申塚に案内しました。
山を上り切った後、字西坂ノ上に下る道
(現在も農道として使用されている)
田んぼと写真中央の樹木の間を横倉沢川が流れる
写真右手の小高い所が庚申塚。その手前、白い花が
咲いているところに、「左ぜんこうじ、右山道」と
刻まれた道標がある。
現在の青倉・西山田への農道は車を使うようになってから出来たもので、かつての福枚峠に比べればなだらかな坂道になっています。
<青倉集落>
さて、市川さんらは青倉集落に戻り、集落の中を進まれました。山から下ったところから集落中央あたりまでは善光寺街道の面影はほとんどありません。しかし、青倉公民館を過ぎたところからは善光寺街道の道形が残り、現在も街道沿いの数軒のお宅の作業道として生きています。
『村史』では「繊法(せっぽう)塚(づか)」と記されているところ、
高橋友太郎さん(屋号「千本(せっぽう)塚(づか)」)宅前を進む
市川さんたち
<森集落>
やはり『村史』の記述を紹介しましょう。
「ここ(繊法塚)から一気に中条川に下って川を渡り再び上
って中条部落を左手に過ぎ、国道筋を行くこと300メートル
程で大沢から森用水堰の端を通り、神社前で右に折れ、番屋
前から用水路にそって松屋商店裏を通り、千曲川の流れの音
からヒントを得たかと思われる字ドドメキを過ぎて、松葉前
で左に曲り、的場頭、的場という歴史的地字名のところを過
ぎ十王堂前(村の定型として十王堂は村の中央なり、森では
何かの都合でここに移されたものであって、現に堂ノ後とい
う屋号の家は別の所にあり)の小坂を下って、現高橋木工所
前から登って鉄路を横切り、庚申塚で堂原地籍に入る。左館
跡にそい字原の畑中を過ぎダラダラ坂を下ること3、40メー
トルで信越国境字境で越後国羽倉地区に入る」
私の勉強不足で森の字(あざ)名はよくわかりません。市川さんらはお宮の所在を確認された後、Yショップ前の信号を左折して、森宮野原駅に到着されました。
桑名川からここまで約14km。市川さんは4月26日に飯山駅から戸狩野沢温泉駅まで、つづいて5月11日には戸狩野沢温泉駅から桑名川駅まで、計22kmを歩かれ、今回で「東山道の面影を追いながら…」という歩き旅のシリーズが完結したとのことです。
歴史資源と豊かな自然を生かす“歩き旅”はなかなか面白い企画
4月末に市川さんからお手紙をいただき、案内を請われたとき、率直に言って驚きを禁じ得ませんでした。「えっ! 桑名川から森まで歩くの?!」と。
でも、結果からいえば、とても楽しい企画でした。桑名川から西大滝の間、初めて見る景色が多かったのも楽しかった。
藤沢と西大滝の間にて
歴史を訪ねる、しかもゆったりした気分になれる豊かな自然の中で。これは栄村の資源を生かす企画にできるだろうというのが率直な感想です。市川さん、楽しい機会をお与えいただき、ありがとうございました。