配達日誌8月12日〜20日
- 配達日誌
- 2014.08.23 Saturday
12日(火) 「台風一過」という言葉があり、台風が通り過ぎた後は快晴になることを言う。私は京都出身なので第二室戸台風(1961年)など台風の直撃は何度も経験しているが、実際「台風一過」の言葉通りである。ところが、今日は「台風一過」どころか一日中雨が降った。前線の影響だというが、なにかおかしい。
そういうわけで今日はほとんど室内作業。主に写真データの整理だが、整理しないことには復興や村づくりのデータとして生きてこない。「栄村復興への歩み」の村紹介のための特別版というのを試作してみたが、なかなか大変。
データ整理の作業は外回り以上に疲れる。パソコン作業中の姿勢が悪いのはわかっているが、データ整理に集中するとついつい姿勢が悪くなってしまう。
13日(水) 「復興への歩み」8月11日号は予告のとおりお休みにしたが、協賛者にお配りしている「配達日誌」(8月1日〜11日)だけは配達することにした。6月に「配達日誌」を2号分配ったことがあるが、虫眼鏡を使って読んで下さっている高齢の方には一度にたくさんの量を配られると、読むのに苦労されるようだからだ。今日は青倉などで50軒を廻った。
その途中で、来訪者を田んぼにお連れしたとき、稲の花が開花するところを撮影することができた。稲の花そのものはこれまでにも撮影したことがあるが、今回、調べてみると「頴(のちに籾となる部分)が開き、白っぽいおしべが出てくる」のだという。だいたい午前10時頃のことらしい。
撮影できたのが下写真。撮影時刻は9時58分。たしかに「籾」が開き、そこから白いおしべが出ている。
6日に泉平で撮影したきれいな花があり、11日にその家のおかあさんを訪ねた。花が大好きで、名前もよく調べておられる人だ。だが、その花については「調べてもわからない」とのこと。その後、懸命に探し、ついに「柳花笠」という素敵な名前のものであることがわかった。その結果を今日、お知らせに行った。
花全体を見ると紫色に見えるのだが、写真撮影したものを拡大してよく観察すると、ピンクの小さな花がいっぱい集まっている。南米原産で、当初はどなたかが植えられたのだろうが、村を廻ると花を植えたとは思えないような場所でも見かける。野生化し、自生し始めているのではないだろうか。
14日(木) 昨日に引き続き、「配達日誌」を配りに廻る。月岡から天地まで上がり、つぎに東部を下る。お盆の帰省で家々に駐車している車の台数が多く、やはり他府県ナンバーが目立つ。
配達を始める前に昨夕に続き、箕作のお墓を訪ねる。「13日の夕方にみんなお墓に行ってお花を供える」と聞いていたからだ。拝見すると、家の周りに咲く花を切り花にしたものが多い。この日のために家周りで花を育てているという面があるそうだ。
役場の駐車場は車の台数が少なく、いちおう役場は開いているもののお盆休みの職員が多いのだろう。工事現場も今日はすべて休みのよう。そんな中、黙々と草刈りに勤しむ人もいる。宮川頼之さん一家は、頼之さんがアスパラの消毒(菅沢)、春美さんは一人で黙々とトマト収穫(妹背木)、そして一哉さんと麻子さんは帰省された二男の正哉さんとともに田んぼの横を流れる小さな川の両岸の草を刈っておられた(下写真)。中山間地直接支払制度の点検に備える意味もあるそうだ。
村でも評判の働き者一家だが、ものすごい質量の仕事を苦にせず、明るく作業されているのが嬉しい。
配達は昼すぎに終わり、「溜まっている事務作業をしなければ」と思いつつも、中条川上流の崩壊地へ。今回は1号崩壊地よりもさらに奥の2号崩壊地(森の開田水路のかけ口がある)まで行った。また、1号崩壊地から2号崩壊地に至る仮設作業道の途中から下に降りてみた。水が流れるところまでは降りられないが、堆積土の崩壊が進んでいる様子がよりリアルに確認できた。
上の写真は降りられるぎりぎりの所まで行って、崩壊地の中の水の流れを撮影したもの。水量はごくわずかだ。しかし、大雨が降ればいっきに水量は増える。そのとき、この写真に見える崩れた石などがすべて下流に下るわけだ。より詳しくは「復興への歩み」本文で報告したい。
15日(金) 今日はお祭りのところ(集落)が多い。まず私が暮らしている森集落の中条地区。わずか6世帯だが、白山神社という独自のお宮があり、毎年、8月15日に神主さんが来て祭礼が行なわれる。朝6時から地区の人たちの手で境内・社殿の掃除と祭礼の準備。午後2時から祭礼。祭礼の最後にお神酒を3口で飲み干す儀式が行われ、神主さんは帰られるが、その後、地区の人だけが残ってお酒を飲み続け(私はほとんど飲めないが)、終ったのは5時半頃だったろうか。
その後、やはり今日が祭りの青倉の知人宅にお呼ばれして、夕食。雨が降ったり止んだりで、夜の行事ができるかどうか心配されたが、子どもたちの花火大会、ちょうちん行列ともになんとかできた。
田んぼ際で花火に興じる子どもたち(青倉)
私は午後9時ころ、平滝集落のお祭りの撮影にむかう。この1週ほどの間、平滝の人に会うたびに「うちの祭りは15日だからね」と繰り返し、念押しされ、平滝のお祭りを初めて見に行くことになった次第。
天狗による注連切りが10時、獅子舞は10時半からとのことでしばし待機。いよいよ撮影という時になって雨がまた降り始め、撮影には相当苦労した。「復興への歩み」本文に掲載するが、松明をかざす天狗の姿はうまく撮れたと思う。
16日(土) 今日も一日中断続的に雨が降る。箕作集落では昨夜の宵宮に続き、今日は獅子が悪魔祓いの1軒1軒を廻るのだが、雨で大変だったようだ。
中条では午後2時から祭礼の後片付け。30分ほどで片づけは終わり、後は延々とお酒を飲むことになる。昨日もそうだったが、この飲みながらの話の中で、“むら”(中条地区あるいは森集落を指す)の歴史についていろいろ興味深い話が聞ける。また、栄村の将来についてどんな展望を抱いているかの本音も聞くことができる。大事な場だと思う。と同時に、こういう場で出てくる話を飲む場以外できちんと議論する機会がないことが村の抱える問題ではないかということも思う。
お宮の社殿から村道まで下りる道が急なので、「暗くなる前に」ということで午後5時半に散会。村道に下りた時に見えた素晴らしい景色の写真を1枚(写真は実際をあまりうまく再現できていないように思うが)。断続的な雨で生まれる雲の姿がなんともいい。
「復興への歩み」本文では扱う余裕がないので、中条という地区とその歴史について少し触れておきたい。
現在の中条地区は私も含めて6世帯。姓は月岡、桑原、斉藤、木村がある。斉藤姓の2世帯は現当主になってから他集落から移り住まれた方。木村姓は桑原姓のお家のご長女のご主人の姓。もともとの中条地区にある姓は、月岡、桑原、広瀬の3家のようだ(広瀬姓の方が震災までお一人暮らしておられたが、震災後移転)。そして戸数は一貫して6〜7軒だったようだ。「中条」という地区名について、中条の人には「真ん中という意味だろう」という思いがあるようだ。行政的な意味合いがある「集落」(区)は森に入っているが、独自の歴史と存在意義を有しているといっていいだろう。その象徴が白山神社の存在だ。森の建森田神社よりも歴史が古いという。
私が村に移って初めて知った言葉に「まき」というものがある。Webの「百科事典マイペディア」では、「日本における社会構成の一単位で,同族をさす。親族とは異なり,姻族は含まず,また六親等より遠い同系のものをもその範囲に含める」とあり、『大辞林』には「家を単位として,その本家・分家などの関係によって結ばれた集団。主として東日本の各地に見られる」とある。「親族とは異なり、姻族は含まない」という点がポイントだと思う。血族に近い概念だと思う。民法では6親等までを血族としているが、そういう近代法の概念を超えた伝統的なものである。
現在の中条には月岡姓の家は1軒しかなく、「月岡」という姓は白鳥集落に多く見られる姓なのだが、今回、月岡英男さんにお聞きしたところ、中条には「月岡まき」があって、3家あったという。そういえば、昨年、東京栄村会の関係者にお会いしたとき、「実家は、いまはないが、中条だった」という月岡姓の人がおられた。そして、やはり英男さんによれば、月岡という家は森集落が始まったとき、3つしか存在しなかった家のうちの1つだという。
こういうことを知ったからといって、それがすぐに村のこれからに役立つというわけではないが、中条という地区が新しい血も受け入れながら、“しぶとく”生き続けていく可能性を感じさせるように思った。
17日(日) 会社などの勤務先は今日17日までお盆休業ということだろうが、むらの各家が帰省者を迎え入れるという意味では昨日でお盆も終わったのではないだろうか。お盆の帰省とお祭りのお客さんが重なり、目がまわるほどの忙しさだったという方も多いのではないかと思う。
高橋彦芳さんをお訪ねし、お祭りとの関係で村の各集落のお宮の歴史などについて伺った。『村史』や『栄村のお宮・お寺』という書物にいろいろと貴重なデータが記載されているが、やはり彦芳さんのような方に伺わないと知りえない、貴重な話が多い。
祭礼では神主さんがお出でになるが、栄村の人ではなく、お隣の旧東大滝村(現・野沢温泉村東大滝地区)や飯山市戸狩の人である。「栄村には神主はもともとおられなかったのですか」とお尋ねすると、「いや、月岡(集落)にいたんだ。関沢秀麿といった。その息子さんが学校の先生になり、県内各地を転々としていて、親父さんの跡を継ぐために村に戻る選択をしなかった。それで関沢神主が東大滝の水井神主に引き継ぎをお願いしたんだ」とのこと。(彦芳さんの話には出て来なかったが、箕作にも倉科さんという神主さんがおられたようだ。お家は箕作のお宮のすぐ前で、「いまでもそこの屋号は『田島さま』と『さま付け』で呼ぶ」という話を村の人から聞いた)
こういう話を知ったからといって、それが即村づくりに役立つというわけではないが、知って記録にとどめておくべきことだと思う。
18日(月) 朝から久しぶりに晴れ、暑い1日だった。ただし、夕刻に激しい夕立があり、その分、夜は涼しくなった。
今日はずっと屋内での作業で天候のこと以外は特記事項なし。
19日(火) 今日も晴れで暑かった。
午前中、青倉・西山田から野々海に取材撮影にむかった。7月25日には蝶がいっぱい見られたスキー場内の村道ではほとんど蝶が見られない。蝶が蜜を吸う花がもう終わっているのだ。しかし、野々海に近づくにしたがって、まだ元気なヨツバヒヨドリなどに蝶がとまっている姿がたくさん見られた。とくに印象的だったのは野々海大明神のすぐそばでキリンソウにたくさんの蝶が群れているのが印象的だった。
この取材撮影の後、午後1時半を過ぎていたと思うが、「樓蘭」で7月25日撮影の写真をご覧になったお客さんから現在の野々海池の様子や行き方などを尋ねられた。野々海の四季を小まめに撮影し、データ化していくことがとても大事だと思う。
20日(水) 広島で大変な災害が起きた。ニュースで盛んに報道されているが、災害の直後だけ騒ぐのではなく、自然災害を大きくしてしまう環境保全をめぐる問題や、自然災害を大きな人的被害にしてしまう住宅立地の問題などを平素から深く追求していくことが必要だと思う。
昨夜は夜遅くまで暑かった。栄村でも「熱帯夜」だったのではないだろうか。夜になってもこんなに暑いのは今夏2回目のように思う。お盆が過ぎたら夜は肌寒いくらいなのが栄村なのだが…。
ヒョウ被害の追加取材などでNo.228編集に予想外に時間がかかった。明日から配達再開だ。
そういうわけで今日はほとんど室内作業。主に写真データの整理だが、整理しないことには復興や村づくりのデータとして生きてこない。「栄村復興への歩み」の村紹介のための特別版というのを試作してみたが、なかなか大変。
データ整理の作業は外回り以上に疲れる。パソコン作業中の姿勢が悪いのはわかっているが、データ整理に集中するとついつい姿勢が悪くなってしまう。
13日(水) 「復興への歩み」8月11日号は予告のとおりお休みにしたが、協賛者にお配りしている「配達日誌」(8月1日〜11日)だけは配達することにした。6月に「配達日誌」を2号分配ったことがあるが、虫眼鏡を使って読んで下さっている高齢の方には一度にたくさんの量を配られると、読むのに苦労されるようだからだ。今日は青倉などで50軒を廻った。
その途中で、来訪者を田んぼにお連れしたとき、稲の花が開花するところを撮影することができた。稲の花そのものはこれまでにも撮影したことがあるが、今回、調べてみると「頴(のちに籾となる部分)が開き、白っぽいおしべが出てくる」のだという。だいたい午前10時頃のことらしい。
撮影できたのが下写真。撮影時刻は9時58分。たしかに「籾」が開き、そこから白いおしべが出ている。
6日に泉平で撮影したきれいな花があり、11日にその家のおかあさんを訪ねた。花が大好きで、名前もよく調べておられる人だ。だが、その花については「調べてもわからない」とのこと。その後、懸命に探し、ついに「柳花笠」という素敵な名前のものであることがわかった。その結果を今日、お知らせに行った。
花全体を見ると紫色に見えるのだが、写真撮影したものを拡大してよく観察すると、ピンクの小さな花がいっぱい集まっている。南米原産で、当初はどなたかが植えられたのだろうが、村を廻ると花を植えたとは思えないような場所でも見かける。野生化し、自生し始めているのではないだろうか。
14日(木) 昨日に引き続き、「配達日誌」を配りに廻る。月岡から天地まで上がり、つぎに東部を下る。お盆の帰省で家々に駐車している車の台数が多く、やはり他府県ナンバーが目立つ。
配達を始める前に昨夕に続き、箕作のお墓を訪ねる。「13日の夕方にみんなお墓に行ってお花を供える」と聞いていたからだ。拝見すると、家の周りに咲く花を切り花にしたものが多い。この日のために家周りで花を育てているという面があるそうだ。
役場の駐車場は車の台数が少なく、いちおう役場は開いているもののお盆休みの職員が多いのだろう。工事現場も今日はすべて休みのよう。そんな中、黙々と草刈りに勤しむ人もいる。宮川頼之さん一家は、頼之さんがアスパラの消毒(菅沢)、春美さんは一人で黙々とトマト収穫(妹背木)、そして一哉さんと麻子さんは帰省された二男の正哉さんとともに田んぼの横を流れる小さな川の両岸の草を刈っておられた(下写真)。中山間地直接支払制度の点検に備える意味もあるそうだ。
村でも評判の働き者一家だが、ものすごい質量の仕事を苦にせず、明るく作業されているのが嬉しい。
配達は昼すぎに終わり、「溜まっている事務作業をしなければ」と思いつつも、中条川上流の崩壊地へ。今回は1号崩壊地よりもさらに奥の2号崩壊地(森の開田水路のかけ口がある)まで行った。また、1号崩壊地から2号崩壊地に至る仮設作業道の途中から下に降りてみた。水が流れるところまでは降りられないが、堆積土の崩壊が進んでいる様子がよりリアルに確認できた。
上の写真は降りられるぎりぎりの所まで行って、崩壊地の中の水の流れを撮影したもの。水量はごくわずかだ。しかし、大雨が降ればいっきに水量は増える。そのとき、この写真に見える崩れた石などがすべて下流に下るわけだ。より詳しくは「復興への歩み」本文で報告したい。
15日(金) 今日はお祭りのところ(集落)が多い。まず私が暮らしている森集落の中条地区。わずか6世帯だが、白山神社という独自のお宮があり、毎年、8月15日に神主さんが来て祭礼が行なわれる。朝6時から地区の人たちの手で境内・社殿の掃除と祭礼の準備。午後2時から祭礼。祭礼の最後にお神酒を3口で飲み干す儀式が行われ、神主さんは帰られるが、その後、地区の人だけが残ってお酒を飲み続け(私はほとんど飲めないが)、終ったのは5時半頃だったろうか。
その後、やはり今日が祭りの青倉の知人宅にお呼ばれして、夕食。雨が降ったり止んだりで、夜の行事ができるかどうか心配されたが、子どもたちの花火大会、ちょうちん行列ともになんとかできた。
田んぼ際で花火に興じる子どもたち(青倉)
私は午後9時ころ、平滝集落のお祭りの撮影にむかう。この1週ほどの間、平滝の人に会うたびに「うちの祭りは15日だからね」と繰り返し、念押しされ、平滝のお祭りを初めて見に行くことになった次第。
天狗による注連切りが10時、獅子舞は10時半からとのことでしばし待機。いよいよ撮影という時になって雨がまた降り始め、撮影には相当苦労した。「復興への歩み」本文に掲載するが、松明をかざす天狗の姿はうまく撮れたと思う。
16日(土) 今日も一日中断続的に雨が降る。箕作集落では昨夜の宵宮に続き、今日は獅子が悪魔祓いの1軒1軒を廻るのだが、雨で大変だったようだ。
中条では午後2時から祭礼の後片付け。30分ほどで片づけは終わり、後は延々とお酒を飲むことになる。昨日もそうだったが、この飲みながらの話の中で、“むら”(中条地区あるいは森集落を指す)の歴史についていろいろ興味深い話が聞ける。また、栄村の将来についてどんな展望を抱いているかの本音も聞くことができる。大事な場だと思う。と同時に、こういう場で出てくる話を飲む場以外できちんと議論する機会がないことが村の抱える問題ではないかということも思う。
お宮の社殿から村道まで下りる道が急なので、「暗くなる前に」ということで午後5時半に散会。村道に下りた時に見えた素晴らしい景色の写真を1枚(写真は実際をあまりうまく再現できていないように思うが)。断続的な雨で生まれる雲の姿がなんともいい。
「復興への歩み」本文では扱う余裕がないので、中条という地区とその歴史について少し触れておきたい。
現在の中条地区は私も含めて6世帯。姓は月岡、桑原、斉藤、木村がある。斉藤姓の2世帯は現当主になってから他集落から移り住まれた方。木村姓は桑原姓のお家のご長女のご主人の姓。もともとの中条地区にある姓は、月岡、桑原、広瀬の3家のようだ(広瀬姓の方が震災までお一人暮らしておられたが、震災後移転)。そして戸数は一貫して6〜7軒だったようだ。「中条」という地区名について、中条の人には「真ん中という意味だろう」という思いがあるようだ。行政的な意味合いがある「集落」(区)は森に入っているが、独自の歴史と存在意義を有しているといっていいだろう。その象徴が白山神社の存在だ。森の建森田神社よりも歴史が古いという。
私が村に移って初めて知った言葉に「まき」というものがある。Webの「百科事典マイペディア」では、「日本における社会構成の一単位で,同族をさす。親族とは異なり,姻族は含まず,また六親等より遠い同系のものをもその範囲に含める」とあり、『大辞林』には「家を単位として,その本家・分家などの関係によって結ばれた集団。主として東日本の各地に見られる」とある。「親族とは異なり、姻族は含まない」という点がポイントだと思う。血族に近い概念だと思う。民法では6親等までを血族としているが、そういう近代法の概念を超えた伝統的なものである。
現在の中条には月岡姓の家は1軒しかなく、「月岡」という姓は白鳥集落に多く見られる姓なのだが、今回、月岡英男さんにお聞きしたところ、中条には「月岡まき」があって、3家あったという。そういえば、昨年、東京栄村会の関係者にお会いしたとき、「実家は、いまはないが、中条だった」という月岡姓の人がおられた。そして、やはり英男さんによれば、月岡という家は森集落が始まったとき、3つしか存在しなかった家のうちの1つだという。
こういうことを知ったからといって、それがすぐに村のこれからに役立つというわけではないが、中条という地区が新しい血も受け入れながら、“しぶとく”生き続けていく可能性を感じさせるように思った。
17日(日) 会社などの勤務先は今日17日までお盆休業ということだろうが、むらの各家が帰省者を迎え入れるという意味では昨日でお盆も終わったのではないだろうか。お盆の帰省とお祭りのお客さんが重なり、目がまわるほどの忙しさだったという方も多いのではないかと思う。
高橋彦芳さんをお訪ねし、お祭りとの関係で村の各集落のお宮の歴史などについて伺った。『村史』や『栄村のお宮・お寺』という書物にいろいろと貴重なデータが記載されているが、やはり彦芳さんのような方に伺わないと知りえない、貴重な話が多い。
祭礼では神主さんがお出でになるが、栄村の人ではなく、お隣の旧東大滝村(現・野沢温泉村東大滝地区)や飯山市戸狩の人である。「栄村には神主はもともとおられなかったのですか」とお尋ねすると、「いや、月岡(集落)にいたんだ。関沢秀麿といった。その息子さんが学校の先生になり、県内各地を転々としていて、親父さんの跡を継ぐために村に戻る選択をしなかった。それで関沢神主が東大滝の水井神主に引き継ぎをお願いしたんだ」とのこと。(彦芳さんの話には出て来なかったが、箕作にも倉科さんという神主さんがおられたようだ。お家は箕作のお宮のすぐ前で、「いまでもそこの屋号は『田島さま』と『さま付け』で呼ぶ」という話を村の人から聞いた)
こういう話を知ったからといって、それが即村づくりに役立つというわけではないが、知って記録にとどめておくべきことだと思う。
18日(月) 朝から久しぶりに晴れ、暑い1日だった。ただし、夕刻に激しい夕立があり、その分、夜は涼しくなった。
今日はずっと屋内での作業で天候のこと以外は特記事項なし。
19日(火) 今日も晴れで暑かった。
午前中、青倉・西山田から野々海に取材撮影にむかった。7月25日には蝶がいっぱい見られたスキー場内の村道ではほとんど蝶が見られない。蝶が蜜を吸う花がもう終わっているのだ。しかし、野々海に近づくにしたがって、まだ元気なヨツバヒヨドリなどに蝶がとまっている姿がたくさん見られた。とくに印象的だったのは野々海大明神のすぐそばでキリンソウにたくさんの蝶が群れているのが印象的だった。
この取材撮影の後、午後1時半を過ぎていたと思うが、「樓蘭」で7月25日撮影の写真をご覧になったお客さんから現在の野々海池の様子や行き方などを尋ねられた。野々海の四季を小まめに撮影し、データ化していくことがとても大事だと思う。
20日(水) 広島で大変な災害が起きた。ニュースで盛んに報道されているが、災害の直後だけ騒ぐのではなく、自然災害を大きくしてしまう環境保全をめぐる問題や、自然災害を大きな人的被害にしてしまう住宅立地の問題などを平素から深く追求していくことが必要だと思う。
昨夜は夜遅くまで暑かった。栄村でも「熱帯夜」だったのではないだろうか。夜になってもこんなに暑いのは今夏2回目のように思う。お盆が過ぎたら夜は肌寒いくらいなのが栄村なのだが…。
ヒョウ被害の追加取材などでNo.228編集に予想外に時間がかかった。明日から配達再開だ。