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2011年3月に震度6強の地震で被災した長野県栄村で暮らす松尾真のレポートを更新しています。

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小谷村・白馬村の状況11月29日版

  • -
  • 2014.11.29 Saturday
 28日の小谷村・白馬村訪問について、小谷村の被災状況の速報のみ28日夜に出しましたが、このレポートでは詳細を報告したいと思います。

小谷村エリアに入って最初に目撃した山崩れ箇所
 国道148号線の白馬村新田〜小谷村千国(ちぐに)間の通行止めのため、迂回路の県道433号線で栂(つが)池(いけ)経由で小谷村に入りましたが、千国区を通過中、カーブで国道148号線沿いの山が大きく崩れているのは目に飛び込んできて、車を停め、撮影しました。



 望遠でクローズアップすると、もう1枚の写真になります。



 この後、小谷村で見ることになる山崩れ箇所に共通することですが、硬い岩があまり見えず、非常に脆(もろ)い土質だと思います。
 
 道路情報では「立の間チェーン着脱所で土砂崩落」とのみ出されていて、詳しいことはわかりませんが、写真の地点がその近くであることは間違いありません。
 JR大糸線も同じ辺りで普通になっていますが、国道もJRも「復旧の目途はたっていない」と報じられています。
 この山崩れの状況を見ると、本当に「復旧の目途はたたない」のだろうと思います。が、そうであるならば、現場の写真等を積極的に開示し、「復旧には2週間を要する」とか、あるいはまた、「現場はまだ土砂崩落の危険があって応急復旧工事すら目途がたたない」とか、もう少し具体的な情報を出すべきではないかと思います。
 JR大糸線の不通も大変ですが、国道148号線の不通は小谷村にとって非常に打撃が大きいことだと思います。この問題について、もう少し被災当事者の目線にたった情報発信がほしいと思う次第です。
 
 以下、昨日の速報レポートで書いたことは繰り返さずに書き進めます。

山腹に集落が点在する山村
 今次震災の小谷村の被災状況、さらには復旧・復興の展望を理解するうえで、小谷村がどういう環境の村なのかを知っておく必要があると思います。
 私は事前に小谷村を訪ねたことがある人から、「栄村とは山の大きさが違う」、「集落の多くは山にはりついたような感じで立地している」といったことを聞いていきましたが、実際に現地に行くと、その環境の栄村との違いにやはり驚いてしまいました。
 まず、小谷村役場の写真をご覧ください。



 役場のすぐ裏が山です。国道148号線から(進行方向を糸魚川方面として)左に入ってすぐのところですが、こんな感じなのです。
 もう1枚、曽田・奉納に向かう途中で撮影したものです。



 この集落はまだ比較的国道148から近いところで、曽田集落などはもっと山の上の方にあります。

 こうした山の上にある集落は基本的に一本道で、道路が損傷した場合、迂回路はありません。栄村も山間の集落はそういう面がありますが、栄村で見る光景とは違います。しかも、その1本道が途中からは道幅などにおいて、栄村の集落内道路のレベルになっているといって過言ではありません。

 国道4148号線は小谷村を基本的に姫川に沿って南北に縦断する大動脈ですが、その村内総延長の4分の1ほどがトンネルのようです。私は中谷川沿いの地域に行くために、中土トンネルというのを走りましたが、栄村の青倉トンネルと横倉トンネルを合わせたよりも長い感じでした。

 小谷村の総面積は267.91?、うち88%が森林、耕地面積は2.1%。総面積、森林割合は栄村と似ていますが、役場所在地の標高が516.25m、それが村内では底辺部に比較的近く、周りを標高1600〜2800mの高山が取り囲んでいます。
 白馬村から小谷村に向かうとガラッと環境、風景が変わります。
 長野県の地方事務所がある大町市よりも新潟県の糸魚川市の方が近いという感じです。
 
 私がこうしたことを延々と書いてきたのは、今次震災の被災状況に対する関心が白馬村に集中し、小谷村に充分な目が行き届かない心配があると思っているからです。28日に両村を訪れた際、白馬村でも24日に比べればTVの中継車の数は減っていましたが、小谷村ではメディア関係者をまったく見かけませんでした。
 私はもっともっと小谷村の被災状況、復旧への取り組みへの関心を高める必要があると思います。今回は時間が限られていましたので、近々にもう一度訪ねたいと考えています。
 
白馬村でメディアの目が届いていないところ――青鬼区

 さて、紙幅が限られていますので、28日に見た白馬村の報告に移ります。
 私が注目した1つの事例は青鬼という区(集落)です。現在、避難指示が継続中です。
 場所は、24日に訪れた時に道路の片側が崩れていた姫川第二ダム横をさらに進み、ダム本体と並行して架かっている橋を渡ったところに青鬼につながる山道が始まります。写真の橋を渡って来て、すぐに進行方向右手に曲がる山道を進みます。


写真左の構築物がダム。この橋を写真手前へ渡り切ったと
ころが青鬼への山道の入り口

 その道は「通行止め」になっていて、「青鬼まで1.5km」という看板を見て、歩いて上ることを決断しました。
 歩くこと約5分で青鬼区に着きましたが、途中、至るところで路肩にブルーシートがはられています。また、山側の法面が崩れているところもあります。とくに被害がひどいと思われる箇所の写真を示しておきます。
 


 

 青鬼区は区全体が「伝統的建造物群保全地区」とされている、素晴らしいところです。



 現在、避難指示が継続されているのは、上の写真のように道路が損傷していて、集落が孤立する危険があるからです。妥当な判断だと思います。
 そのうえで、私がここで指摘したいことは、このまま積雪期を迎えた場合、この伝統的建造物群保存地区に指定されている家屋の除雪ができるのかという問題です。
 ちょうど家内部の片付けに戻っておられた方にお聞きしたところでは平年1.5mほどの積雪だということですから、除雪しないというわけにはいかないはずです。
 その方のお話では、ほぼ全世帯が山の下に家を持っていたりするそうなので、住民の住居問題はあまりないようですが、とにかく、この伝統的建造物群をこの冬、どう守るのか、早急に方策を打ち出さなければならないと思います。
 いまのところ、青鬼地区を取り上げた報道は目にしていません。
 
 同様に避難指示が継続中の野平区についても行きたかったのですが、やはり通行止めになっており、山の上の方で道路復旧工事を行っている様子が下から見えましたので(下写真)、この日は行かないことにしました。



白馬村の農地被害の特徴
 28日は白馬村の農地(田んぼ)の被害状況を確認することも1つのポイントとして意識していました。
 外土原という地区(大出の近く、野平へ上がる道路が始まる辺り)で、今回の農地被害の1つの典型ではないかと思われる状況を見ました。



 上の写真の田んぼ、真ん中が左右よりも低くなっていることが明瞭に見てとれると思います。
 もう1枚の写真でも、田んぼの左右で高さが違っていることが確認できると思います。



 今回の農地被害は、栄村の震災時のクラックが大きく入るというタイプのものは少なく、写真に示した農地に高低差が生じているケースが多いようなのです。
 すでに農地被害の調査が始まっており、県の担当部署でもこうした今次農地被害の特徴を認識されているようです。

 そのうえで指摘しておきたいことは、上の2枚の写真のケースは被害が確認しやすいケースで、じつは相当に注意深く観察しないと被害が確認しづらいものもかなりあるようだということです。
 次の写真をご覧ください。



 この田んぼの場合は、意識してよく見ないと、高低差を見逃す危険があると思います。
 積雪期前に早急に調査するという県の方針は正しいと思いますが、積雪期前には気づかず、春になって初めて被害が確認できた場合でも復旧支援が現時点で被害が判明するものと同様に取り扱われるように予(あらかじ)め確認しておいてほしいと思います。

堀之内区の続報
 28日は県道の通行止めが解除され、長野市〜小川村を経て、大町市の青具(あおく)三叉路を直進して、すぐに堀之内区に出ることができました。
 28日に廻ると、24日に見たよりも広い集落でした。世帯数も約70世帯と24日時点で報告したよりも多いようです。

お宮の被害
 出会った区の人に、「お宮の状況はどうですか? 場所はどこですか?」とお尋ねすると、「完全に潰れています。その山の上です」と指差されました。下の写真の山です。



 歩いて上りました。急ぎ足で上ると、途中で息があがるほどの坂道です。間もなく見えてきたものはショッキングなものでした。



  手前右手の建物(お宮本体ではない社務所のような建物かと思われます)は完全に潰れていますが、奥に見えるお宮本体は外周り、建物内部をよく見ると、傾いたりしていますが、柱は折れていなくて、曳き家作業で修復可能ではないかと思われました。



 お宮は、写真に見えるのは拝殿で、その奥に廊下でつながる本殿があります。「城嶺神社」という名前で、相当立派なお宮です。


写真の右手の建造物が本殿

 栄村の人にはよくお分かりのことと思いますが、お宮の修復には公的支援はいっさい入りません。堀之内区の人たちは住宅が大きな被害が出ている中で、お宮の修復費用を負担することには大きな困難があります。このこと1つをとっても、集落の判断で自由に使えるお金を私たちが用意する必要性があることはあきらかだと思います。
 なお、公民館について、全壊ですが、震災前に建て替えを計画し、宝くじの補助金に申請しているところだったそうです。是非、宝くじの補助金に採用されるよう、祈ります。また、区で公民館に地震保険をかけてあったとのことです。

堀之内区のみなさん、明るくお元気です



 この写真はお宮のある山の下で撮影したものです。道路端に折り畳み式のテーブルを置き、みんなでお茶をのみながら談笑されています。
 このすぐ近くの壊れたお家の方、そしてその片付け作業に来ておられる村内の他区在住の方々です。こういう光景はほかにも見られました。
 みなさん、明るくお元気です。もちろん、大変な被害を受けられて心配がいっぱいあることは明白です。それでも、こういう光景が見られることは心強いことです。
 
築300年以上の旧庄屋さんの家
 24日の第一報で「波打っているような感じ」と報告した家、今回訪ねました。空き家のような感じがしましたので、横の家の片付けをされている方に伺うと、その方が当主。隣の家屋にお住まいです(その家も大きな被害を受けています)。その方は、「欲しいかい? これは昔の庄屋の家で、築300年以上。震災の前から村で引き取ってくれないかと話していたんだが」と話されました。



 大きく傾いていますが、意外と傷みは少ないのではないかと推察されます。ご当主に修復を求めることは負担が大きすぎると思いますが、堀之内区の復興のシンボルとして、みんなの支援で修復・保全するということもあっていいのでは、と思いました。(写真に見えるように、すでに建物の傾きを測る調査がはいっています)
 
 紙幅が尽きました。今回の報告はここまでとします。


小谷村被災状況レポート

  • -
  • 2014.11.28 Friday
 今日28日朝、栄村を出発し、白馬村を再訪するとともに、小谷村に初めて入りました。思ったよりも早く午前9時半すぎに白馬村堀之内区に到着できたのですが(青具と白馬の間の通行止め解除になったことが大きい)、白馬村でいろいろと廻ったため、小谷村入りは午後2時半になってしまい、5時頃にはもうすでに暗くなり、小谷村の全面的な状況をみることができたわけではありません。村に帰り着いたのは午後9時、かなり疲れているため、今夜の報告は「ひとまずの報告」にとどめざるをえません。詳しい報告は白馬村の新報告とあわせ、明日以降におこないます。

衝撃的な被害


 小谷村のボランティアセンター被害が大きい地区とお聞きした小谷温泉に至る中谷川流域を見ての戻り道で右手に山にブルーシートがかけられ、その横に民家があるところに行ったとき、目の前に飛び込んできたものです。
 目の前で道路がなくなり、道路の両脇の白線が入ったアスファルトが民家にめり込んでいます。
 中谷(なかや)西という地域です。
 この民家の少し下の家の方にお聞きすると、「山が20mか10m、落ちてきたんだ」との説明。
 この民家は別荘的に使用されているもので、地震時には人はいなかったそうです。この下に位置する2世帯は避難中とのことです。
 家に帰り着いてから信濃毎日新聞を見直すと、26日付の記事で報じられていた場所です。ただし、掲載されていた写真は地滑りセンサー設置作業の様子で、先の写真に見られるような事態の凄まじさは読み取れないものでした。
 
小谷村の被害の1つの特徴はやはり山崩れ・土砂災害
 上述のように26日の信毎が小谷の土砂災害をかなり大きく報道しましたが、TV・新聞で小谷の情報は非常に少ないです。
 被害がひどい中土地区(大字)の2ヶ所、中谷川沿いと、石原〜奉納(ぶのう)間を見てきました。下の写真が中谷川沿いの山の状況です。






 
 以上3ヶ所のいずれも直下に民家があるわけではありませんが、さらに崩壊すれば下を流れる中谷川が堰き止められることになりかねません。3枚目の山の向かい側は小谷温泉というところで、集落があります。
 私は変に騒ぎ立てようとは思いませんが、こういう状況はしっかり頭に入れておく必要があると思います。

曽田〜奉納間の道路が心配
 石原〜奉納(ぶのう)間を進んだのはもう午後5時近くで薄暗く、道路状況を見るのが精一杯。集落の家の状況を見る余裕はありませんでした。
 いちばん奥の集落が奉納で、その手前が曽田。曽田に被害が大きな家が何軒かあり、積雪期までには復旧が困難なので、山を下りてもらって栂(つが)池(いけ)地区の空きペンションのようなところにひとまず仮住まいしていただくというのが村の方針だと聞いていました。
 ところが、曽田から進んで奉納に至る間に次の写真のような箇所があります。



 ブルーシートがかけられている部分と道路が生きている部分との間には段差があります。生きている部分は車1台がギリギリ通れる道幅になっています。
 この道路がはたして積雪期に持ちこたえられるのか、非常に心配です。この道路を維持できないとなれば、10世帯以上が避難を余儀なくされます。
 
 小谷村は山深い村です。
 私たちが意識して注目しないと、充分な復旧・復興が困難になるのではないか、非常に心配です。

 
 

被災地・被災者支援で必要なこと

  • -
  • 2014.11.27 Thursday
 神城断層地震について、TVでの報道はだいぶ減ってきたように思います。今日の夕方にたまたま見たNHK長野放送局のニュースは比較的的を射たテーマを取り上げていたように思いましたが、被災者が実際に知りたい情報はメディアにはなかなか出てこないものです。
 自分で24日に見たことをふまえ、TVニュース・新聞をチェックしながら、いろんなことを考えています。そうすると、私が栄村で震災に直面した当時のことが色々と思い出され、「ああ、こういうことを被災者のみなさんにお伝えしなければ」という思いがつぎつぎと出てきます。また、県などに対してこういうことを要望しなければという事柄もいろいろ出てきます。
 明日は白馬村を再訪し、さらに小谷村も訪ねる予定ですので、あまり多くのことを書いている時間はありませんが、被災者のみなさんに、そして支援の志を持つ全国のみなさんにお伝えしておきたいことをアトランダムに書いていきます。

1. 積雪期が迫っているという事情を重視し、かつ、雪を理由にさまざまな対策を諦(あきら)めないように注意することが大事
 今回の被災地は豪雪地です。
 今年は降雪の始まりが遅くなっていますが、それも時間の問題。2日には降雪の可能性があると聞いています。
 積雪が始まると、いちばん心配な問題は地震で傷んでいる家屋に積雪の圧力が加わり、半壊や一部損壊の家屋が全壊等の状態になる危険性があるということです。10年前の中越大震災でもこのことが大きな問題でした。中越が10月22日発生であったのに対して、今回の神城断層地震は11月22日発生。中越の時に比べて積雪期までの猶予期間がほとんどまったくありません。
 被災者の方たちは当然、このことを強く意識されていることと思います。
 私たちは、被災者の方々のこの心配を重く受け止めて、神城断層地震について考えなければなりません。
 
 同時に、だからこそ、「間もなく雪の季節になるので、仮設住宅はすぐには建てられない」というような話には警戒しなければならないと思います。
 仮設建設用地をすぐに決め、整地作業に即刻着手すれば、たとえ雪が降り始めても仮設住宅の建設は十分に可能だと思います。
 今朝からの報道や、今日の県知事会見を見ると、県は「本格的な冬の前に仮設住宅を建設する」という方向に舵をきってくれているようです。
 全国のみなさんには、これが非常に切実な問題であることをご理解いただき、県を後押しして下さるよう、お願いします。
 ちなみに、仮設住宅というものは、必要戸数等の申請は市町村、建設は県、費用負担は基本的に国、というものです。
 全国のみなさんが「一刻も早く仮設住宅の建設を」という思いを強く持ってくださることが、国の財政支援を確実なものにしていくと思います。
 
2. 住居再建の展望を明確に打ち出すことが最重要
 今回の震災の家屋被害は栄村の震災よりもはるかに大きく、深刻なものです。
 被災者の多くの人は、片時も「家はどうなるのか、家の再建をどうするのか」という不安が頭から離れない状況にあるものと思います。

イ) 仮設住宅について
 当面大事なことの第1は、避難所環境の改善です。
 この点は宿泊施設(ホテル、旅館等)への移動がすでに具体化していますので、その方向で進められることを願っています。
 
 第2は、仮設住宅の建設です。
 積雪との関係はすでに上で書きましたが、さらにいくつかのことを指摘しておきたいと思います。
 1つは、避難所として利用する方向性が出ている宿泊施設は仮設住宅の代替にはなりえないということです。
 宿泊施設は、学校や公民館等の公共施設の避難所よりは格段に環境が改善され、避難所としては申し分ないと言っていいと思いますが、こういう施設での避難生活は1ヶ月が限度です。
 やはり、「仮のものであっても、ここが私たち家族の住居」と言える住宅(=仮設住宅)で、自分で食事を作り、家族が食卓を囲むという暮らしを一刻も早く取り戻せるようにすることが必要です。避難所生活が1ヶ月を超えると、自立生活能力が後退し、精神的肉体的ダメージが大きくなります。
 2つは、仮設住宅の建設戸数を行政の責任で速やかに決めることが必要だということです。
 今日のニュースを見ると、「被災者へのアンケートで仮設入居の意向を調査して建設戸数を決める」と言われています。
 たしかに、被災者の意向を聞くことは必要なことですが、仮設の戸数が結果的に余ることを恐れず、早く建設戸数を決め、一刻も早く発注をかけるべきです。中越沖地震の時、新潟県はそういう決断をしたと聞いています。
 逆に、栄村の場合は、この点で半月近くの時間を無駄に費やしました。県や国はとっくにスタンバイしてくれているのに、村が仮設建設の申請をする作業が遅滞したのです。
 
 なお、いまのところニュースでは話題にされていませんが、仮設住宅入居要件について一言しておきます。
 栄村では、地震から1ヶ月強の4月20日頃まで、役場が「仮設に入れるのは全壊の世帯のみ」と言い続けました。中越、中越沖では半壊世帯の入居実績があるにもかかわらず、です。結果としては、被災判定終了後に「半壊も入居可」となりましたが、それまでの間、半壊世帯にとっては非常にナーバスなことでした。
 今回の震災の場合、被災判定で「一部損壊」となっても、家の修理のために一定期間、家には戻れないという世帯が相当数出てくるのではないかと推察します。その場合、3〜4ヶ月から半年間程度の期間であっても仮設に入居できるよう、村と県が柔軟な対応をとるよう要望したいと思います。
 栄村でも、そういうケースがありました。当初、「家の修理期間だけの入居はダメ」と言い、仮設の第二次建設でOKとなりましたが、最初からOKにしていただきたいと思います。

ロ) 被災者生活支援法の適用決定を一刻も早く

 少なくとも白馬村と小谷村が同法適用の要件を満たしていることは明白です。国は一刻も早く適用を決定すべきです。(適用要件は「同一地域に全壊が10戸以上」です)
 家がはっきりと全壊している人は、すでに住宅再建のお金をどう工面するかを考えておられます。生活再建支援法は全壊世帯に対して上限300万円の支給で、とても300万円で住宅を再建できるものではありませんが、この300万円を約束されるのとそうでないのとでは大きな違いがあります。
 なお、公明党が同法の弾力的適用、すなわち、全壊や半壊が数戸しかない市町村も白馬や小谷と一体のものとして適用対象にするよう、要望を出したと新聞で読みましたが、当然の要望です。ただし、そのあたりの調整を理由として同法の適用決定が手間取ることがないよう、注意を喚起したいと思います。
 
ハ) 震災復興公営住宅建設の方針の一刻も早い打ち出しを
 24日に堀之内区や三日市場区を見た限りでは、自力再建の意思と能力をお持ちの方はかなりおられるのではないかと推察します。
 しかし、同時に、「高齢者一人住まいで全壊、途方に暮れている」というケースの存在もニュースから伝わってきます。
 そういう方の場合、完全に壊れてしまった我が家を目にすると絶望感ばかりが募ってきて、「私には再建能力はない。都会にいる子どもの所に行くしかない」と考えざるをえなくなってきます。
 栄村の場合、避難指示が解除され、「自宅に帰ってもいい」と許可された3月20日あたりからこの高齢者の絶望感がいっきに高まってきました。そこで、「公営で集合住宅を建ててもらうという道があるよ」というお話をして、「やっぱり村に残ろう」という気持ちへの切り替えをしていただいたという経緯があります。
 タイムリーにも、県知事が4月初めの栄村視察時に「県営になるか村営になるかが未定だが、とにかく公営住宅を建てる」という方針を明確に打ち出され、高齢者などは希望の光を見出しました。
 
 県知事はすでに今日の記者会見で公営住宅の建設に言及されていますので、私は少しホッとしましたが、予算の裏付けをどうするのかなど、まだまだ気を緩めるわけにはいきません。
 今回の全壊戸数の多さ、あるいは半壊でもダメージの大きいものが多いと推察されることなどから、必要となる公営住宅の戸数は栄村以上になるものと推測されます。したがって、かなりの予算が必要になります。
 財源の基本は国の出費です。全国のみなさんがこの問題に注目し、国に「災害公営住宅の建設を」という圧力を高めて下さることが大事になってきます。
 
3. 被災判定をめぐって
 いま、ニュースで「全壊33棟」と流れていますが、これはあくまでも仮の「判定」です。
 今後、早ければ数週間以内に正式の被災判定作業が行われ、その結果、「全壊」、「半壊」、「一部損壊」という罹災証明書が役場から発行されます。
 この被災判定というのが変な言い方ですが、くせ者です。
 かなりの場合、被災者が感じている被災度と、被災判定の結果とは食い違います。「全壊だと思っていたのに、半壊と判定された」、「大規模な修理が必要なのに一部損壊と判定された」というようなことです。

イ)被災判定の実際
 こういうズレはなぜ生じるのか。
 最大の原因は、被災判定がじつは家屋の資産価値の査定なのだということにあると私は考えています。被災判定の所管部署は徴税部門だということがそのことを雄弁に物語っていると思います(実施は税部署だけでは人手が足らず、いろんな部署の人が動員されるようですが、事の本質は変わりません)。
 
 さて、被災判定の実際の場を思い出してみます。
 判定担当者は、被災家屋にやって来て、外から家を見ます。
 この段階で、家が完全に潰れてしまっている、半分以上傾いているとなれば、すぐに「全壊」と判定されます。
 そうでない場合は、重りを吊るす道具を使って、家の傾きを測定します。これが一定の角度以上ならば「全壊」となります(その角度の数字についてはいま手元に資料がありませんので言えませんが)。
 傾きを見た後、外壁の亀裂がチェックされます。亀裂の長さなどが問題となります。
 ここまでで、被災判定の担当者は判定を終了し、帰ろうとするケースがかなりあります。
 家の中の壁などが激しく壊れている被災者は「これから家の中を見てもらうんだ」と思っているのに、です。
 今日も栄村の人と話していて、「オレの家でも帰ろうとするから、『中を見てくれ』と言ったら、やっと家の中に入った」という体験談が出てきました。
 ですから、「家の中を見てくれ」と主張しなければなりません。
 
 さて、家の中を見ます。
 しかし、ここでまた被災者と判定者のズレが表面化します。
 私が栄村の震災時に調べたところ、内壁は相当に壊れていても、被災判定のあまり影響しないのです。どうやら内壁は内装という扱いで、家屋の構造に関わるものとは見なされないのです。

ロ)被災判定は納得いくまで再調査を求めることができる

 被災判定調査からしばらくすると(同一自治体内の全被災世帯の被災判定調査の完了後)、役場から判定結果が伝えられます。
 ここで自分の思いと判定結果が食い違う場合、被災者は納得のいくまで何度でも再調査を求めることができる旨、法的に保障されています。
 実際のところ、異議を申し立てることにはかなり被災者の精神的負担がありますが、支援者の助けなども借りて、頑張ることが大事です。

ハ)役場担当者は「鉛筆をなめる」努力を
 被災判定者はかなり詳細なマニュアルを持たされていて、調査票に被災の度合いをマニュアルに即して点数で記入することが求められます。
 ですから、被災判定は非常に硬直的なものであるかのように思われます。
 しかし、私は中越震災の経験者から、「要は担当者が鉛筆をなめる努力をするかどうかですよ」と話されました。中越では実際、被災者の感覚に寄り添う判定になるよう、かなりの努力が行われたようです。
 栄村では残念ながら、そうはなりませんでした。
 白馬村や小谷村では中越大震災の被災判定の経験者から学ぶようにしてほしいと思います。

4. もう1つの被災判定――地震保険の査定
 「もう1つの被災判定」とタイトルに書きましたが、保険屋さんが被災判定にやって来ます。
 自宅の再建費用の確保という点からはこちらの査定の方がより重要だともいえます。地震保険で支払われる金額がこれで決まるのですから。
 私が24日、白馬村を訪れた時、農協の担当者がすでに被災者宅訪問を始めていました。
 中越の経験でも、栄村での経験でも、農協の「建(たて)更(こう)」(建物更生)が非常に役立ちました。
 各地で自然災害が相次いでいて、保険業界は苦しくなっていると言われていますので、今回も「建更」でかなりの支払いを受けることができると断言することはできませんが、「建更」に入っておられる方は、農協の担当者とよく話されることが大事だと思います。

5. 集落(区)や常会単位でのお茶のみの機会を
 もう明日で震災発生から1週間となります。
 被害激甚地区ではほとんどの方が避難所で寝泊まりをされていると思います。
 白馬村の場合、避難所は1ヶ所とのことですから、同じ集落(区)の人、同じ常会の人は互いに頻繁に顔を合わせておられることと思いますが、1週間〜2週間が経過した時点で、避難所とは異なる場で、区や常会でのお茶のみのような場がセッティングされるといいのではないかと思います。
 小谷村の場合は明日行って見ないとなんとも言えませんが、白馬村の場合は避難所以外の場所で、ちょっとリラックスできるような場を設定することは十分に可能だと思います。
 こういうお茶のみや、あるいは温泉入浴のようなことが気持ちをリラックスさせ、また、お隣同士の結束を固めるうえで非常に有効です。
 区の組織が非常にしっかりしているようですから、区からの発意があるかとも思いますが、場所の確保・提供の面などで行政や社協が力添えすることが必要かと思います。

 

配達日誌11月15日〜11月25日

15日(土) 朝7時半少し前に出発して、11時すぎまでに当部、北野、中野、極野、坪野、原向、天地、大久保、野田沢、程久保で108軒を廻る。
 原向の堀切に向かおうとしたら、舗装工事が行われていて入れない。長瀬新田から旧道に入って、堀切に抜けた。村の人でもあまり知らないだろう道だ。舗装はあと一息のところまで進んでいた。昨日は平滝の飯山線より上の道路も舗装が行われていた。この舗装で冬の除雪はやりやすくなると思う。



 天地で「大久保の山が白くなった」という話を聞く。朝方のことのようで、私が大久保に行った時には確認できなかった。大久保は雨の中で普請。阿部久さんの家の前に軽トラがとまっている。息子さんが普請に来られているのだ。久さんの具合を尋ねると、「おかげさまで元気になりました」とのこと。よかった。

 野田沢で出棺の見送りに遭遇した。冷たい小雨が降り続く中、「野田沢にこんなにたくさん人がいたの」と思うくらい大勢の人が出ていた。昨日は平滝でお葬式を準備中の家があった。高齢者が多いので人口の自然減は避けられない。村の人口維持には社会増をめざす必要がある。

 昼、津南に買い物に行った帰り、宮野原橋で3℃の気温表示。雨は10時半すぎから強くなっていたが、「里で3℃ならば、野々海は雪になっているに違いない」と考え、野々海に向かうことにする。家に立ち寄って、除雪用のスコップを積み込み、平滝から上がる。やはり野々海は積雪。詳しいことはブログで「初積雪の野々海」と題してアップした。
 
16日(日) 朝8時から森集落の水路普請。今回は国道117から下で千曲川に落ちる部分を担当する班に組み入れられた。「こんなふうに水路は流れているのか」と勉強になる。
 10時半すぎには終わったが、腰がパンパンの状態。数日前から左の背中が硬くなっていたが、ついに悲鳴を上げた感じ。

 それでも、「この天気ならば野々海の雪も少し減って、池まで行けるかもしれない」と考え、平滝から野々海へ。途中までは昨日よりも積雪が減っていて順調だったが、標高840mあたりから本格的な積雪。野々海水路の森と青倉への分岐点近くで前へ進むことが困難に。そこで引き返す。詳しくはブログに「野々海続報」としてアップする。

 野々海から戻った後、温泉に入って腰は少し楽になったが、その後に中条川の工事の様子を撮影に廻ったのがいけなかった。このままではぎっくり腰になるという感じ。マッサージに行って、体全体はほぐれるも、腰は張っていて痛い。もう1回温泉に入って少し楽になった。
 明日、どれくらい動けるか、少し不安。
 
17日(月) 朝、目が覚めたのは4時台。腰がまだ痛い。「起きるには早すぎる」と思い、もう一度眠る。つぎに目覚めたのが7時半すぎ。腰も軽くなっている。

 というわけで、9時前から配達。まず泉平。何枚か、気に入った写真を撮れたが、冬支度で驚いたものを1枚、紹介したい。いろんな花を育てている武田文子さんのお宅に近づくと、なにかこれまでと違う。花が春から秋にかけていっぱい咲き乱れていたところに畦のようなものが出来ている。



 冬だけ使う“たね”がつくられているのだ。昨冬もきっとこうなっていたと思われるが、私が昨年12月から自分で配達をするようになった時にはここがもう“たね”になっていて、花畑から“たね”への変化に気づかなかったのだと思う。

 泉平の後、箕作全戸と月岡の6軒を廻り、11時頃、「今日は晴天なので、野々海の積雪も少し減って、野々海池まで行けるのでは」と思い、野々海への道を上がる。案の定、野々海の三叉路まで行けて、さらに池の入り口へ向かう。途中で車は進めなくなり、徒歩で池へ。「初雪の野々海池」が撮影でき、午後、ブログにアップした。

 午後、業者さんが新しいパソコンとプリンタを接続する作業に来て下さって、新パソコンをフルに使える環境が整った。パソコンの操作にもかなり慣れてきて、なんとかやっていけそう。昨日、飯山市まで出かけたときに、『パソコンで困ったときに開く本2015 ウィンドウズ8.1対応版』という本を入手。少し立ち読みして何種類かの同種の本から選んだもの。これも役立ちそう。
 夕刻近くに41軒を廻ってNo.235の配達を完了。計704部。これで18、19日もいろんな取材に充てることができる。
 
18日(火) 午前中は天気が目まぐるしく変わる。雨が強く降ったかと思うと、パッと陽がさす。そんなことのくりかえし。その中で9時20分頃、明石で撮影中に突然、霰(あられ)が降り出した。ほんの1分か2分のことだが。写真に白く写っているのが霰。



 越智勇気さん(元緑のふるさと協力隊、現復興支援員)のフェイスブックによれば秋山は降雪とのこと。午後はほとんど雨でとにかく寒い一日だった。
 配達はなく、午前中は取材撮影、午後は記事書きなど。
 
19日(水) 今日も配達はなく、この間撮った写真のアルバムを作成。工事現場等の写真を除くと、14日に撮った写真が多く、「11月14日のピックアップ」という写真アルバムが出来た。ブログにアップしている。
 日によって枚数は大きくことなるが、多い時には500枚くらい撮る。しかし、1回8頁の「復興への歩み」で使用できるのは撮った写真の1割にも満たない。それではもったいないので、時間があるときにはこういう写真アルバムを作ってみたいと思う。
 今日はほとんど写真を撮っていないが、横倉の道を走った時に撮った1枚を示しておきたい。なんということもない風景ではあるが、絵になっていると思う。


 
20日(木) 明日21日のスケジュールの関係で「復興への歩み」No.236の発行を今日に繰り上げた。ただし、起床は遅く、少し原稿を書いたところで、青倉の取材に出かける。8時半から青倉の女しょが、明日21日に十日町で開催されるイベント「雪国の『自然を食う会』2014秋」(主催:雪国観光圏推進協議会)に出品する料理をつくるのだ。
 8時半ちょっと前に公民館に行くと、メンバー全員がすでに集合、間もなく材料を刻む作業などが始まり、12時すぎまで続いた。その間、ずっと撮影。
 出品料理の1つに「栃餅のぜんざい」があり、栃餅が搗かれたのだが、その一部を取り出して黄な粉をまぶして、全員が食べる機会があり、私もお相伴にあずかった。


 
 近々、水路普請について「復興への歩み」で取り上げたいと思っているが、「復興への歩み」No.235ではスペースの関係で掲載できなかった11月9日の箕作の水路普請の様子を何枚か紹介しておきたい。


「寺堰(てらせぎ)」と呼ばれる水路のかけ口。奥志賀公園栄線を箕作から4.4km進んだ「大沢」というところにある。

 寺堰は奥志賀公園栄線と泉平に向かう道の間を下ってくるが、水路は深い。下はそこでの作業の様子。



 もう1本、小箕作川の下流から取り込む水路もある。下の写真はその水路が新ライスセンターの前を流れるあたりでの作業の様子。水路は写真右手に見える、斜めにかけられた木の下を流れている。



 さらにもう1枚。常慶院の上の道路脇。



 いずれの集落の普請も大変だが、それぞれがどんなところで普請をしているのか、お互いに知ることが大切なのではと思う。

21日(金) 今日は昨日に引き続き、「雪国の自然を食う会」に出展する「青倉女しょの会」の料理作りを取材・撮影。それでも、8時半に料理作りが始まる前や、調理が終わった後の昼過ぎに105軒の配達をこなした。
 午後3時前に村出発で十日町の会場へ。クロステンという施設で、中に入るのは初めてだったが、なかなかお洒落な雰囲気の施設だ。こういうところに行くと、レストラン・喫茶室のようなところに行くことにしているが、いい雰囲気のお店だった。



 ケーキセットを注文し、ケーキは格別に美味しいというものではなかったが、村に少なくとも1つはこういう場が欲しいなと思う。なにも洋風ではなく、伝統的な和風のものであってもいいが、とにかく訪れたお客さんが爽やかな気持ちでひと時を過ごせる空間が必要だと思う。

 会場は、「1出展団体3人まで」という制限付きで、撮影に入れるか心配だったが、会場の責任者から「自由に撮影してください」と言っていただき、たくさんの写真が撮れた。ただし、カメラの「白色蛍光灯」モードで撮ったら、ロビーではそれが正解であったが、会場内は「白熱球」だったようで、写真の色具合が思ったものにならなかった。写真については勉強しなければならないことが多い。
 
22日(土) 朝から1時半頃までで110軒を廻る。
 今日は天気がよくて、暖かかった。あるかあちゃん曰く、「今日は暖かくてホッとする。でも、困るんだ。何からしたらいいか、わかんねえ」。もう雪があってもおかしくない時期。秋始末・冬支度はあらかた終わっているからだ。

 野田沢でネギを干しているかあちゃん二人に出会う。これまでもネギを干している人に出会うと、「どんな食べ方をしますか?」と尋ねているが、今日のかあちゃんがおもしろい食べ方を教えてくださった。「白いところを切って、油をひいて焼くんだよ。甘くて美味い」。ネギステーキですね。

 大久保では凄い量のナメコの茎を切り落としているとうちゃんに出会う(写真次頁)。採るのに要した時間は「昨日は5時間。今日は朝に3時間」とのこと。ズクがあるねえ。


写真に写っているのとは別に、大きな袋にいっぱい入ったのが
玄関前に置かれていた

 東部パイロットを通って下におりる時、サンゴミズキの収穫に出会った。



 当部新田の「しも」のとうちゃん。「完全に赤くなるのが今年は遅い。でも、雪がきたらおしまいなので、いいやつを選んで切っている。12月10日までに出荷。それ以降は値が下がる」。サンゴミズキはもう何度も見たことがあるが、収穫作業に出会ったのは初めて。
 「いろいろ配っていてくれる松尾さんですよね」と、私の顔と名前を知っていて下さった。

 配達の後は、20日、21日に撮った「青倉女しょの会」の写真データの整理。全部で1300枚近くあり、今日は20日の分しか整理できなかった。

23日(日) 昨夜、大きな地震が発生。仕事を終えて、のんびりテレビを見ていたら、画面に「地震緊急情報」の文字が。同時に村の告知放送も入ってきた。これが驚き。「3、2、1、0」とカウントダウンをするのだ。そして、「ゼロ」という音声とともに家が揺れ出した。こんなのは初体験。2011年3月12日の地震の時にはこんな放送は流れなかった。
 昨夜はテレビつけっ放しで寝た。

 今日の配達は100軒きっかり。

 「震度6弱」ということだったので、被害は大したもににならないだろうと思っていたら、大変な被害状況になっていることがわかってきた。震度6弱だった戸隠の知人に昨夜は連絡がつかず、心配したが、今日になって無事がわかった。白馬村の被害が深刻なようで、白馬でペンションを経営している知人のことが心配に。連絡先を調べて電話すると、幸いなことに室内の壁にヒビが入るなどの被害にとどまったとのこと。
 この知人の存在を思い出したことから、明日の白馬行きを決断。青倉米の発送に必要な「お米のふるさと便り」を大急ぎで完成させる。
 
24日(月) 5時に起床し、「お米のふるさと便り」の印刷等を終わらせ、7時18分に村を出発。
 昨夜、すでに白馬村に取材に入っている知り合いの記者に電話し、白馬村へのコースは見当をつけておいた。県と白馬村役場が出している道路情報の地図もネットで入手し、プリントアウトして携行。

 小川村から大町に通じる道路で「片側通行規制」箇所に出くわす。しかし、これ以外は地震の爪痕にはまったく出会わずに白馬の知人のペンションに着いた。
 片付けを手伝うつもりで行ったのだが、ご夫婦二人で昨日一日かけて片付けを終えたとのこと。お話を聞いたうえで、被害が大きかった地区に向かった。

 白馬で見たこと、聞いたことは「白馬村被災状況レポート」に書いたので繰り返さないが、久しぶりに段差がある道路を走るのに緊張した。堀之内区で家が潰れているのが目に入ってきた時、「栄村と家の潰れ方がまったくことに驚いたが、地震で家が壊れている状況そのものは既視感がある。栄村での震災体験は体の中にしみついているのだと思う。

 堀之内区に入る前、昼頃、白馬村役場へ。ここで顔見知りの記者と偶然出会う。「安倍首相が来るってテレビで言っていたけど、もう来たの?」と尋ねると、「いま、そこの避難所に入っていますよ」とのこと。避難所から出てくる様子が役場の玄関から見えて、いちおう写真を撮った。地元の人、マスコミ関係者、応援に入っている他自治体の職員、一様に「選挙だからでしょう」と言う。嫌だね、災害の政治利用なんて。



 堀之内区は通行規制で車は入れない。知り合いの記者からは「規制がされていて、松尾さん、不審者扱いされるかもよ」と言われていたので、ものすごく緊張しながら徒歩で入った。被災者は声をかけると丁寧に対応してくださった。そういう中、後で調べるとどうやら著名な組織であるらしいところの人物が複数、ジャンパーに手を突っ込みながら大きな顔で歩いている(「闊歩している」と言うのがぴったりな雰囲気)のを見た時は嫌な気持ちがした。栄村の時もそういうのがいた。

 白馬では昼飯が手に入らないかもしれないと思って、途中のコンビニでおにぎりを買っていったが、結局、午後3時すぎに白馬での取材・撮影を終えるまで食べなかった。ああいう現場に入っているとお腹が空かないものなんだなあと思った。
 
25日(火) 昨夜は「白馬村被災状況レポート」を書き終えたのが午前1時すぎ。さらにブログへのアップ作業などをして、寝たのは午前2時半すぎ。栄村の震災時以来、久しぶりの深夜作業。起床は8時頃になってしまった。
 配達は「白馬村被災状況レポート」を60軒ほどだけ。
 昨夜のレポートでは報告しきれなかったものを「追加版」として編集すると午後6時を廻ってしまった。慌てて温泉へ。
 夜、村外の何人かの人と白馬、小谷について情報交換。中越防災安全推進機構は明日、小谷に入る。
 「仮設住宅は積雪が始まるので年内は建てられない」との報道。私が出しゃばるのもどうかと思ったが、県に「どんなことをしてでも即時に仮設住宅を建設してください」と要望を送る。

 
 

白馬村被災状況レポート追加版

  • -
  • 2014.11.25 Tuesday
 24日付のレポートは、白馬村から帰って深夜に及ぶ編集作業であったこと、紙幅が限られていたことから、紹介できていない写真・情報があります。そこで、以下、追加報告をします。
 なお、この追加版はメール送信及びブログでの発信のみで、印刷版の村内配布はいたしません。

姫川第二ダム近くの道路の損壊

 知人から「野平(のだいら)のあたりは隆起などが生じているそうです」と聞いたので、知人宅を離れた後、そこに向かおうとしました。
 国道408号線が「岩岳入口」というところで通行止めになっています。



 そこで立ち番をされていた人に伺うと、「ここから白馬駅方向にむかって2つ目の信号(森上交差点)を左に入っていくのですが、行けるかどうか」とのこと。
 説明された通りに進むと、進行方向右手にダムが見え、その横手の道路の路肩が崩れていました。その様子が以下の写真です。



 写真の右に見える木々の下が姫川第二ダムです。道路の左側のJR大糸線ではJR線の保守作業を請け負っている第一建設工業の作業用列車が線路の保守点検を行っていました。



 この道路は、帰宅後に地図で確認すると、野平に向かう道を越え、小谷方向に向かうものでした。その後、一度向かいかけた道が野平に通じるものだったようですが、まったく地理不案内であるため、無理をせずに408号線に戻り、つぎに大出というところに向かいました。
 
大出地区
 大出(おおいで)地区も知人から教えられ、向かいました。JR大糸線の白馬駅の近く、白馬村役場交差点を役場と反対の方向に曲がって少し進むと、「大出」の看板がかかる信号があり、その先は通行止めになっています(下写真では写真左手が村役場方向、右手が大出地区)。



 私は当初、大出地区そのものよりも鬼無里に通じる国道406号線の状況が知りたかったので、大出地区の様子を車内から見ながら、山の方へ上がっていきました。



 写真は「天神宮橋」という小さな橋のたもとから国道406がつながる山の方向を撮影したものです。ゆったりした雰囲気が漂う、いい山景色です。
 ちなみに、ここから反対方向、白馬のスキー場が広がる八方尾根の方向を見た眺めは次のとおりです。いいところです。この大出地区にもかなりの数の宿があるようです。



 さて、大出地区の国道406号沿いでは道路の隆起・段差などが見られ、水道管の復旧工事が行われていました。道路に段差がある箇所では壊れたアスファルトを取り除き、バラスで埋めて通行しやすくする応急復旧が進んでいました。このあたりのことは栄村の時よりも対応が素早いなと思いました(後に堀之内でその種の作業の準備を行っている業者に確認したところ、「県の発注です」との答えでした)。





 この大出地区の水道復旧工事で驚いたのは施工者が「佐久水道企業団」というところだったことです。工事をしている人に確認すると、「はい、佐久から来ています」とのことでした。佐久水道企業団は佐久地方の広域水道事業団で代表は佐久市長。県が仲介しているのかもしれませんが、東信地方からの素早い応援、感心しました。

嶺方区
 嶺方については第1報で紹介しましたが、紹介していない写真もあるので、もう少しレポートします。
 「この先にも人が住むところがあるだろう」と考えて、山道を進み、嶺方区を知ったのですが、当初、嶺方をこえてさらに上りました。まもなく、二度目の通行止めの表示(下写真)。もう先には山しか見えず、さすがに引き返すことにしました。ただし、後で嶺方の人から聞いたところによると、この先に小さな集落が2つあるそうです。



 写真を何枚か紹介します。


 上は嶺方の公民館。建物に損傷はなく、「避難所とちがって畳があり、休まる」と言っておられました。下は公民館向かい側の空き地に設置されたテント。総代さんは「昨夜はここで石油ストーブを焚いて待機した」と言っておられました。


 テントの後方にお宮があり、随分と歴史のあるもののようです。
 総代さんが嶺方スキー場の閉鎖に関連して興味深いことを言っておられました。
    「いまは西高東低。昔と逆だ」
 「西高東低」の「西」とは現在の白馬村中心地及びその西方の大規模スキー場地域、「東」は嶺方のような国道408号よりも東側の山間地域。おそらく山の生業が廃れ、「西」のスキー場中心の白馬村に変わったのでしょう。国道406号線の使用状況についても、「最近はあまり上がらないな。下にくだる。まあ、鬼無里に行く時は通るけど」とのこと。
 私が昨日のレポートで積雪前に嶺方あたりまで国道406を機械除雪可能なように緊急復旧する必要性を書いたのは、以上のような背景があってのことです。
 
 国道406号線の状況をもう少し報告しておきます。
 昨日のレポートで紹介した道路を横断する形でのクラック・段差は今日の信濃毎日新聞の関連記事から推測すると断層の動きによるもののように思われます。
 嶺方から少し下ったところで片側通行になっていますが、次の写真はその片側通行区間の路肩の状況です。左手が沢です。


 
 本格的な復旧工事が必要なことがわかると思います。
 当面、積雪期は片側通行で除雪をする以外ないと思いますが、雪消え後、すぐにでも工事が始まるように、本格的積雪期前に被害調査をして復旧工事を予算化してもらいたいものです。3桁番号の国道は県の地方建設事務所の所管で、国から予算が下りてくるのが遅くなる傾向が明瞭にありますので。
 
白馬村の歴史について若干
 今回の追加レポートで紹介してきた野平、大出、嶺方はいずれも「北城」と呼ばれる地域です。白馬村は神城と北城の2つの地域から成ります。
 1956(昭和31)年に神城村と北城村が合併して白馬村が誕生しました(白馬村役場HPより)。栄村誕生と同時期で、いわゆる「昭和の大合併」です。
 堀之内は慶長19(1614)年の検知の時に石高が示された「本村」の1つ。今日紹介した野平、大出、嶺方はその後に新田開発されて生まれた村のようです。
 ちなみに、神城は「かみしろ」と読むのに対して、北城は「ほくじょう」と読むようです。

三日市場
 三日市場については第一報では少ししか触れられませんでしたが、堀之内とともに被害が激甚な集落(区)です。白馬村役場発表のデータでも、全壊家屋があるのは堀之内(住宅23棟、倉庫等41棟)、三日市場(住宅4棟、倉庫等8棟)の2集落(区)だけです。
 しかし、メディアは少なくとも24日午後は堀之内に集中していて、私が目撃したのは歩きで取材している記者一人だけでした。
 何枚か、写真を紹介します。車庫兼車庫が潰れ、中の車も潰れているのは衝撃的でした。しかし、ここでも片付け作業が急ピッチで進められていました。





堀之内公民館
 堀之内については第一報でかなり紹介しましたが、どうしても追加しておきたいことがあります。堀之内公民館です。



 上が公民館の全景で、全壊です。第一報で紹介した写真の1枚目のペチャンコに潰れている家屋の左手に位置します。
 内部の状況もひどいです。
 


 
 
 公民館は集落(区)の結束にとって不可欠のものです。
 青倉公民館の再建に全国の方々からご支援いただいた当事者として、堀之内公民館の惨状は無関心でいられません。

 堀之内関連で紹介しておいたほうがいいかと思われる写真をもう1枚だけ示しておきます。


 堀之内の集落内道路と畑の間に立つ電信柱の状況です。法面が崩れていますし、写真左手で道路にかなりの段差が生じているのが確認できます。

白馬村にとって生命線の観光、冬のスキー客確保をどうするか
 昨日、白馬村を訪れて強く感じたのは、「ああ、ここは観光が基幹産業の村だなあ」ということでした。
 そして、今日の新聞では「風評被害が心配だ」、「風評対策を万全に」ということがかなり大きく出ていましたし、ネット上でも同様の趣旨の記事が見られます。
 私は激甚被災地の復旧と白馬村の冬の観光(スキー)の確保とが両輪でなければならないと思っています。

 その両輪をうまくまわすのに必要なものは情報発信の量と工夫にかかっていると思います。

 いまのところ、冬の観光客をひきつける新たな情報発信はあまり見られません。白馬村となんらかの関係がある諸個人が情報発信するとともに、やはり情報発信に全精力を注ぎこむような人が必要だと思います。白馬村には「白馬村観光局」の公式サイトがあり、「白馬村」で検索すると、役場公式サイトよりも上位で「白馬村観光局」のサイトが出てきます。この数日、繰り返し見ていますが、地震関連の情報は役場のサイトに跳ぶ形になっていて、率直に言って、充分な情報が出ているとはいえないように思います。また、英語バージョンもありますが、地震関連については役場の日本語情報しか出てきません。白馬のスキー客に占める外国人客の多さからすると、早急な改善が必要だろうと思いました。

 私はスキーをしませんが、今冬はスキーをする知人・友人に白馬行きを積極的に薦めたいと思っています。そして、関係者のお許しがあれば、ペンションなどが受けた被害(建物内部の壁の亀裂など)をも逆に積極的な宣伝材料にして誘客を図るのも一つのやり方ではないかと思っています。

 栄村は、現在はとても観光がうまくいっているとは言えない状況ですが、震災から3年間は見舞いを兼ねて来村する人など、泊り客がかなり増えた局面もありました。いろんな意味で村が注目を浴びることが大事だと思います。
 私自身、ささやかながらお役に立てればと思い、今後も努力していきたいと思っています。
 
 (了)

白馬村被災状況レポート

  • -
  • 2014.11.25 Tuesday
栄村復興への歩みNo.237(通算第271号)
2014年11月24日


 22日夜、白馬村、小谷村などを中心に大きな地震が発生しましたが(県は「神城断層地震」と命名しました)、3年前の地震で大変お世話になった者として、ただニュースを見ているだけでは済まされないと思い、今日24日、白馬村に行ってきました。まず白馬村に住む知人を訪ね、その後、被害が激甚であった地区を見てきました。限られた時間でしたが、私が目にしたものを報告し、そのうえで私たちが何をなすべきかについても提言したいと思います。

栄村の震災では見たことがない家の潰れ方
 朝7時すぎに村を出発した私は、途中に通行止め箇所があるため、大町市経由で9時すぎに白馬村に入りました。知人宅、後に紹介する嶺方という山間の集落(国道406号線沿い)、白馬村役場を訪ねた後、午後1時半頃に神城地区の堀之内に入りました。
   *神城というのは栄村でいえば「北信」や「豊栄」、
   「西部」「東部」に相当するものでかなり広い地域を
    指し、「堀之内」というのが栄村で言う集落に相当
    します。
 ここで栄村の震災では見たことがない家の潰れ方を目にし、驚きました。「壊れ方」というよりも「潰れ方」という方が実態に即していると思います。
 1つは、みなさんがテレビや新聞でご覧になっているものです。1つだけ事例写真を掲載します。



 こういう潰れ方をしている家は1軒にとどまりません。
 素人的な見方ですが、家が壊れたというよりも、地盤から崩れ、ドスンと落ちたという感じがします。

 もう1つは、家全体が波打っているようなかんじのものが見られたことです。2枚の写真をご覧ください。


写真A


写真B

 写真Aの家はあきらかに左右に比べて真ん中が下がっています。
 下の写真Bの家も写真右方が上がっているのか、左方が下がっているのか、家が水平ではありません。
 写真Bの家では、家の前で「栄村から来たのですが、ちょっと写真を撮らせてもらっていいですか」と声をかけると、「ああ、栄村。大変でしたね。中に入って見てください」と招き入れられました。
 家の中に入ってビックリ。立派な大柱が完全に折れているのです(下写真)。



 写真Bの中央に見える男性は、「ここは地震の通り道だった」と話され、「向こうに被害がひどかった三日市場があるでしょう」とも言われました(写真Bの家の前から三日市場を望んだ写真は下のもの)。



 「地震の通り道」という表現は栄村の地震でも言われたものです。
 話が「家の潰れ方」から「地震の通り道」の話に少しそれますが、道路の損傷が激しい嶺方区、さらに戸隠、さらには善光寺、中野市がほぼ直線状に並びます。
 「家の潰れ方」に話を戻しますが、どうしてこういう潰れ方をするのか、専門家などの教えを受けたいと思っています。
 
激甚被害は2集落に集中
 大町市から白馬村に入り、国道408号線を進みましたが、どこを見ても地震の爪痕が見えません。目に見える激甚な被害は国道408号線より東の2つの集落、堀之内と三日市場に限られているのです。もう1箇所はやはり国道408号線よりも東で山間にある嶺方集落です。
 堀之内は世帯数が50世帯ほどです。三日市場はお尋ねした消防団の人が集落の人ではなかったので正確なところはわかりませんが、見た感じでは堀之内よりもやや世帯数が少ないと思います。



 上が三日市場から見た堀之内の全景です。そして、じつはこの写真に見える堀之内の後ろの山の向こう側に嶺方が位置します。
 嶺方で見た特徴的な被害は国道406号線に入るクラックのほとんどが次の写真に見られる道路を横断する形のものだということです。これも栄村の震災時の道路被害の様相とはかなり異なるものだと思います。



 国道406号線は鬼無里と白馬を結ぶ山間の国道で、土砂崩れのために通行止めになっています。
 嶺方では家屋の倒壊はありません。区の総代を務めているという人に伺ったところ、「昼間は区に戻って公民館を避難所にしているが、夜中に下の方で406号線を通行止めにされると下りられなくなるので、夜は村の避難所に行くことにしている」とのことでした。
 また、「地震直後は地方事務所の人が『舗装をやり直すくらいで済むだろう』と言っていたが、その後、もっと深刻だということが判明した」と言っておられました。
 この嶺方にはスキー場があるのですが、客入りが悪いことから今年から閉鎖と決めた直後の地震だそうです。国道406は全面的な復旧工事が必要だと私も思いますが、ひとまず村中心部から嶺方の部分は本格的な積雪期前に機械除雪が可能な状態にしないと、今回の地震を機に山から村中心部に下りてしまう人が増えて、集落が存亡の危機に瀕するのではないかと思いました。
 
 この堀之内、三日市場、嶺方以外の地域にももちろんかなりの被害があります。私の知人の家もそうでしたが、外から見ただけでは被害が見えない家も、一歩中に入ると、壁が落ちるなどの被害を受けています。
 
 私が、この項に「激甚被害は2集落に集中」というタイトルを付けたのは、この事実が今後の復旧・復興に大きな影響を及ぼしかねないと考えたからです。全壊家屋数が30棟を超えていますので「被災者生活再建支援法」は適用されるのではないかと思いますが、激甚被害地域が限定されているため、東日本大震災の一部として認定された栄村に国から出されている復興交付金のようなものが白馬村には出ないのではないかと危惧されるのです。
 県は、7月南木曽土石流、9月御嶽山噴火、そして今回の地震と災害が続き、御嶽山関連で11月議会提出の補正予算で王滝村と木曽町を対象とする復興基金を県単独事業で設けたばかり。こう災害が続いては県の財政も窮屈になってきます。
 今日、白馬村役場で安倍首相の生顔を見ましたが、地元の人から「選挙むけパフォーマンスじゃないの」と言われるようでは困ります。国が今回の震災にどう対応するのか、注目です。

驚くべきスピードでの片付け作業の進展
 堀之内、三日市場でもう一つ驚いたのは、被害を受けた家屋の内部の片付け作業がかなり進んでいることです。







 3つの写真はいずれも堀之内で撮影したものですが、使えなくなったもののゴミ出し、家財道具の搬出、壊れた倉庫の片付け作業の様子です。
 地震があったのが22日の夜、そしてこれらの写真撮影は24日午後。栄村の地震の時と比較してください。
 栄村の場合、実質30分の一時帰宅が初めて許されたのが地震から4日目の3月15日、半日帰宅は18日です。
 白馬村ではじつは「避難指示」がほとんど出されていません(24日現在、野平地区18世帯51人と青鬼地区7世帯10人のみが避難指示の対象。いずれも山に近く、土砂災害を警戒してのものと思われる)。被害激甚の堀ノ内、三日市場でも夜は避難所等に泊まっておられますが、日中は家に戻って片付けをされています。そして、かなり目に入ったのが他地域(他県)ナンバーの車。他地域に出ている子どもや親戚の人が駆けつけて片付けをやっておられるようです。
 栄村のみなさんにとっては記憶に新しい「赤紙」が貼られている家の中にもどんどん入って作業されています。2頁に家内部の写真を掲載したお宅も「赤」が貼られていました。
 私は、「避難指示」発令対象を限定している白馬村(役場)の対応は正しいと思います。

農地の被害について
 被害が激甚な堀之内は広々と田んぼがひろがる地域です(前掲の写真参照)。
 限られた時間の訪問で田んぼの状況を詳しく見ることはできませんでしたが、通行止めで歩いて集落に入っていく時に見た田んぼには明瞭なクラックが入っていました。



 知り合いの報道関係者の話では「農地の被害状況の調査まではまだ手が及んでいない」とのことでした。
 また、彼は「田んぼのことで栄村の経験が活かされるといいなと思うのですが」とも話していました。同感です。


いちばん必要なのはおカネと知識・知恵ではないかと思います

 今日は行けなかった小谷村ではすでにボランティアの募集が始まり、私たちのお世話になった中越防災安全推進機構に長野県社協から小谷村支援の要請があったようです。また、白馬村でも今日、白馬村社協がボランティアセンターを開設したようです(役場隣の多目的施設でその部屋を見ましたが、無人でした)。
 ボランティアも大事だと思いますが、堀之内の片付けの進展を紹介したように、栄村の時とはかなり様相が異なると思います。
 非常にストレートなことを書きますが、私は被災地域がその必要に応じて自由に使えるおカネを提供できるようにすることが非常に大事なのではないかと思います。
 先に書いたように、東日本大震災復興法という特別法による復興交付金の類が展望しにくいですから、そう考えるのです。
 たとえば、堀之内の場合、公民館は全壊です。復旧・復興にはやはり堀之内区内に仮設の公民館、そして本格的な公民館再建が必要となるでしょうが、こういう資金は国の復旧事業では望めません。青倉公民館再建基金の事例を想起したいと思います。「赤十字に義援金を出しても何に使われているのか、わからない。目的がはっきりしている青倉公民館再建基金を知って、是非、寄付したい」という声が多数ありました。また、東京のけやきライオンズクラブのみなさんが東日本大震災直後に義援金を集めながら、寄付先の選定のために1年間、義援金を留保され、震災から1年後に栄村を訪れて栄村ネットワークにその義援金を託してくださったこと、そしてその後は板橋農業祭りに栄村を3年連続で招待して下さっていることを想起します。
 
 知識・知恵の提供も重要です。
 今日話した白馬村の人たちは、「赤紙」の意味や、被災判定制度のことを誰もご存じではありませんでした。そのように言う私も、栄村の震災から数日後、中越の人たちに教えてもらって初めて知りました。
 ましてや、復旧がどういう仕組み・予算で進むのか、あるいは、家の再建に取り組む前提として地盤の調査を簡便かつ費用負担の少ない方法で行うにはどうしたらよいか、等々。いま、私たち栄村の村民が震災時に受けた支援への恩返しとして、今回の被災地のみなさんに提供すべきものがたくさんあると思います。

 以上、まとまりに欠けますが、夜も1時になりましたので、ひとまずの報告をこれで閉じます。被災地支援に今後どのように取り組んでいくか、さまざまな人と意見交換しながら考えを詰めていきたいと思います。
 
(最後のページに白馬村役場が「白馬村内の道路状況」として公表している地図をちょっと見づらいですが、掲載しておきます。白馬村役場のHPはhttp://www.vill.hakuba.lg.jp/です)








栄村復興への歩みNo.236

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  • 2014.11.22 Saturday


 この写真を見たむらの人たちの反応は、「えっ、これ、今年?」、「こんなに積もったの?」というもの。17日午前11時半すぎの野々海池です。
 普通なら、「雪の写真など要(い)らない」と言う村人が多いのですが、この写真ばかりは「きれいだね」と誰もが感嘆されます。
 初雪から2週間くらいは除雪も可能ですので、期間限定で「雪の野々海池をお楽しみください」なんて観光キャンペーンもできると思います。北陸新幹線開業を前にして「常識」を打ち破る発想・取り組みが求められています。
 

平滝の田んぼが道路に変わる―バイパス道路・新しい橋の建設で

 平滝の国道から下の地区を14日に廻りましたが、田んぼの様子が変わっているのに気づき、驚きました。
 「フランセーズ悠さかえ」前を通り過ぎたところから屋号「下西河原」さん(油科勇二さん宅)前の田んぼまで、道路沿いの田んぼすべての中に新しい畦がつくられているのです。



 たまたま家の外に出ていた人に尋ねると、「新しい道路がつくられるんです」とのこと。いま、「フランセーズ悠」のすぐ下(しも)のところで千曲川の新しい橋(仮称「箕作大橋」)がつくられていますが、もう1つ、平滝から明石に渡る橋がつくられる予定で、その2つの橋の間を結ぶ道路がつくられるのです。


「箕作大橋」の橋台
手前が箕作側。千曲川を挟んでむこうの河岸に平滝側の橋台と
「フランセーズ悠」の建物が見える


「下西河原」宅の前で新道路は斜めに進む
ここから千曲川河岸へつながり、対岸の明石へ渡る新橋がつくら
れる
 
 14日昼、平滝と明石の間の千曲川に下りるところに、工事用モノレールが設置され、河岸では数名の人が作業していました。下写真に見える千曲川の対岸は野沢温泉村明石です。



明石でも工事が進んでいます




 上の写真は18日に明石で撮影したもの。新しい道路がつくられつつあります。道路は明石の集落の中を通るのではなく、山手の方です。その道路建設地の目の前には平滝集落が見えます。

田んぼを潰さざるをえない人たちの気持ちに思いを寄せて
 「災害に強い道路ネットワークの構築」ということで、国道117をバイパスするために箕作と明石の2ヶ所で千曲川に新しく橋を架けること、そのために平滝で一定の田んぼが道路に変わることは知っていましたが、明石の橋の位置、そして平滝内に建設される道路の位置については知りませんでした。
 田んぼが大きく削られる様相を目の前に見て、大きな衝撃を受けました。
 平滝の人からは、「新しい道路ができれば便利になるので結構だが、ここはいい田んぼで、それがこんなふうに削られるのは辛い」という声を聞きました。
 その辛い思いはひしひしと伝わってきます。みなさん、震災を体験し、「災害に強い道路ネットワークの構築」ということで受け入れられたのだと思いますが、その辛い思いを私たちは十分に受けとめなければならないと思います。

 

あまり知られていない工事の紹介

 今年もさまざまな復旧等の工事が村内各地で行われてきました。雪の時期が近づき、進行中の工事もまもなく中断を余儀なくされることになるかと思いますが、すでに完了した工事、現在進行中の工事の中で、村民のみなさんの目にあまり触れていないのではないかと思われる工事の様子を紹介していきたいと思います。

白鳥大橋下の法面の修復工事

 いま、国道117号線の白鳥大橋のところで2つの工事が行われています。1つは、「橋のジョイントを直す工事」というもので、橋の上でやっていますので、通行時に工事の様子が見えます。もう1つは「崩れた法面を直しています」というもので、飯山方向にむかって白鳥大橋を渡り切ったところの左手に工事現場にむかう作業道があるのが見えますが、「崩れた法面」というのは見えません。それを撮影したのが下の写真です。18日に明石(あかいし)から撮影しました。



 白鳥大橋のちょうど中央部あたりの真下です(写真左手が飯山方面)。白鳥大橋の背後に旧国道の樽坂スノーシェッドが見えます。今年春の融雪期にスノーシェッドの一部が抜けたのですが、その下の法面全体が復旧工事の対象になっているわけです。
 ちなみに旧国道のスノーシェッドの内部は下の写真のようになっています(6月13日撮影)。





 上の写真に見える法面を現在、直しているわけです。

志久見川の護岸復旧工事

 東部谷の県道を進むと、「志久見」と書かれた看板の手前を左に下る農道があります。そこを下っていくと志久見川が流れていますが、その志久見川の左岸(「左岸」とは上流から下流方向を見て左ということ)が昨年秋の台風で大きく崩れました。その復旧工事で5月から始まり、10月上旬に完了しました。
 まず、工事完了後の様子(下1枚目:11月14日撮影)と工事着手時の写真(下2枚目:5月14日撮影)を比較してご覧ください。





 きれいに直されています。そして、かなり大規模な工事だったと思います。
 しかし、私は志久見の人が保存されている、約10年前にここの護岸工事が初めて行われた時の写真を見ましたが、それによると今回の復旧工事は文字通りの“復旧”、すなわち原状回復であって、抜本的な改修ではないことがわかります。

 志久見の高齢の方にお聞きすると、「昔、志久見川はもっと新潟側を流れていた」そうです。そのあたりの問題に踏み込まないと、大雨等による災害を根本的には防げないのではないかと思います。右岸(対岸)の様子を示しておきます。岩がたくさんあり、川の流れが志久見側へ来るようになっているように思います。





 この川の位置が変わっているという問題をなんとかしなければ根本解決にならないのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 

「大規模土砂災害想定合同訓練」(❓‼)の怪

 5日昼、役場に立ち寄ったとき、役場施設利用のスケジュールを書いた白板に「13:30 大規模土砂災害を想定した合同防災訓練」とありました。「?」と思いましたが、歯科予約が入っていたので、何なのか確認できずにその場を立ち去りました。
 その後、国交省北陸地方整備局湯沢砂防事務所のHPや関係者への聞き取りの結果、つぎのようなことがわかりました。


湯沢砂防事務所のHPから

「台風で秋山の中津川で大規模土砂崩落、天然ダムの形成」という想定

 「合同訓練」というのは、「栄村、長野県庁、長野県北信建設事務所、長野県北信地方事務所、湯沢砂防事務所」という複数機関が参加しているからのようです。
 想定内容は、「平成26年9月16日、台風18号通過にともなう豪雨で中津川の屋敷〜小赤沢間の左岸山腹で大規模崩壊が発生、その後、河道閉塞となり、早ければ18日から屋敷地区での浸水が始まる」というものです。ビックリするような内容ですが、「想定訓練」です。

主導は湯沢砂防事務所か
 この「合同防災訓練」を主導した(仕掛けた)のは湯沢砂防事務所だと思われます。今月中旬には松本砂防事務所が同様の「訓練」を行っています。
 湯沢砂防事務所は国交省の機関です。
 「訓練」で用いられた資料には「国交省水管理・国土保全局砂防部砂防計画課」の名のものもあったようです。
 狙いは中津川流域での大規模土砂災害の可能性を訴え、その流域での砂防堰堤等の建設を正当化−予算を確保していくことにあるのではないかと、私は思います。
 
国交省は中条川の現状を直視してほしい
 栄村で現に大規模土砂災害の危険が切迫し、台風などのたびに避難を繰り返す状況にあるのは言うまでもなく中条川流域です。
 しかし、中条川上流での大規模崩壊、土石流をめぐって国交省が直接に調査に入ったことは2011年3月12日の地震発生以来一度もありません。理由は中条川−栄村の千曲川が一級河川でありながら大臣管理(=国交省直轄)区間ではなく県管理下にあるからだと思われます。
 国交省は中条川の惨状を知らないわけではありません。11月5日の「訓練」でも「台風接近時に森と青倉で住民が公民館に避難している」と想定されているからです。
 なのに、「直轄区間ではない」というだけの理由で、いわば「知らん顔を決め込んでいる」。行政の縦割りの弊害が最もひどい形で現れているといえます。
 こんな状況は一刻も早く改めてほしいと思います。