10日(日) 今日は道祖神祭り。わずか6世帯の中条地区は、午後の森集落の道祖神祭りに先行して、午前、独自の祭り、どんど焼きを行なう。つい4〜5日前、「点火役は隣組長だ」と言われた。
朝8時、喪中で欠席の1世帯を除き、5世帯の男衆5人でどんど焼きの準備。雪が少ないので柱を立てるために土を掘らなければならないかと思っていたが、会場の田んぼには意外と雪があり、土は掘らずに立てられた。
10時半すぎに点火。青空の天にむかって白い煙がむくむくと立ち昇る。そして、10数分後、柱の周りに縛り付けられていた茅、藁がパカッと3つに割れ、紅蓮の炎をあげた。
どんど焼きは毎年見てきたが、こんな素晴らしいのは初めて。
正午少し前に終わったが、お神酒をいただいていたので、一休み。10分か20分はうつらうつらした。2時すぎくらいからか、久しぶりの配達に出た。72軒81部。配達開始からしばらくは、本当に久しぶりの配達だったので、なにか変な感じがあったが、いつの間にか、普通のペースに戻っていた。
平滝での配達の途中、国道のカーブの先に大きな白煙が見えた。平滝のどんど焼きだ。つぎに、白鳥でも白煙が視界に。そして、あるお家に配達に行った時、会場の全体像が見えた。そして、「みかん撒きだぞ」という声が耳に届いた。
いいものだ。
白鳥のどんど焼きの様子はあえて遠景の写真を示したい(下写真)。
11日(月) 8時55分スタートで配達に出た。
配達が休みだった間は、朝、寒くてなかなか布団から出る気になれない日があったが、配達再開となると、そんなことはもうない。寒くてもすくっと起き上がれる。
朝から雪が降る中で、東部から廻り始め、坪野、原向、天地を経て、西部、さらに青倉という順で進んだが(全戸周りは坪野、天地、大久保、程久保、野田沢の5集落)、やはりと言うべきか、極野は他と較べてやや積雪量が多いなという印象だった。
ひたすら廻り、今日は計160軒。昨日と合わせて241部で順調な滑り出し。
一定の年齢以上の人は、それぞれに「SLの思い出」を持っておられる。積極的に引き出していきたい。SLの定期運行の最後が昭和42年(1967年)。当時、カメラを持てる余裕があった人は少ないだろう。写真を入手するのは相当の努力が必要と思われる。とにかく、SLを大きな話題にしていくことが鍵だと思う。
12日(火) 森、泉平などで121軒、130部。累計371部で、配達は快調。
昼すぎ、泉平から箕作へ下るとき、こんな1枚を撮った。見えているのは平滝集落。なかなかいい景色だと思うが、どうだろうか。
13日(水) 今日は天気予報で晴れそうだったので、秋山行きを予定していた。そのとおりに行動したが、大しくじりをしてしまった。
清水川原手前の猿飛橋、逆巻温泉というところを一度も訪れたことがないので、往路の途中で立ち寄ろうと思った。見玉〜清水川原間の国道405には雪もなく、いつになく走りやすかったので、深い思慮なしに405号から右へ、猿飛橋への曲がりくねった坂道に入った(下写真。この写真は帰途に撮ったもの)。入った直後に「しまった!」と思った。道路が完全に凍っていてツルツル。最初のカーブでなんとか車を停めることができて、ほんのわずかの距離をバックで戻ろうとしたが、まったくバックできない。すぐに「無理」と判断した。さあ、どうするか? 前へ進めば、相当の距離の曲がりくねった坂道が続く。無事に下れるという保証はまったくない。しかし、さらにバックを試みる方が危ないという気がした。
これが猿飛橋への坂道(撮影は氷が割られた後)
結局、前へ進むことにした。結果として無事に下りきり、猿飛橋に辿り着くことができた。
しかし、それはもう恐怖という次元を超えたものだった。もう必死だったと言うしかない。
さて、猿飛橋を渡ったが、「どうやって405に戻るか?」である。坂道を上がることはできない。
猿飛橋を渡った先に1軒の民家があり、訪ねた。80歳を超えるというおじいさんが出てきて下さったが、酸素ボンベをひいている人で、「私が動ければ、なんとかしてあげたいが、こんな状態なので…」というご返事。
携帯で知人と連絡をとり、相談した。「猿飛橋の先の坂道を上がって、川津屋さんまで行って援けを求めるしかないでしょう」。
さらに坂道を進むことは怖かったが、他に方法はない。幸いなことに川津屋さんへの道は凍結しているところもなかった。そして、川津屋さんに着くと、玄関前にご主人の姿。「どうされました?」、「坂道が凍結していて、405に戻れないのです。なにか方法はないでしょうか。」、「ええ、水が充分に来ていないのです。午後にも直しに行こうと思っていたところです。」、「わかりました。私が氷を割りましょう。」
川津屋のご主人、吉野さんがタイヤドーザーに乗り込み、「中に入って待っていてください」と。
タイヤドーザーに乗り込み、出発して下さる吉野さん
私は気を取り直して、周辺の写真などを撮っていたが、猿飛橋の方からタイヤドーザーの音が聞こえる。
間もなく、ご主人が戻って来られ、通れるようになったとのこと。心からのお礼を申し上げ、少しお話させていただいた後、氷が割られ、水が流れる坂道を上がって、405号線に戻れた。ただただ感謝!!である。
冬道は怖い。
秋山ではお二人の人と話し込み、配達はほとんど進まず。もう一回行かなければならない。夕暮れ迫る中で秋山を出て、津南町の中心部に着いたのは6時半頃。反省しきりの一日であった。
14日(木) 朝からほぼ一日中降雪。しかし、ほとんど積もらない。
昨日の信毎によれば、白馬村は「寡雪対策本部」を設置したとのこと。なるほど“寡(か)雪(せつ)”という言葉があるのか。たしかに「少雪」という言葉では言い表しきれない異常な少なさだ。
雪が舞う中で平滝、白鳥、箕作、横倉などで140軒を配達。軽トラを降りて、ポストまでの間に距離がある場合は袋に入れるが、それ以外の場合は、「歩み」が濡れないように車から玄関までダッシュ。履いているのは長靴だが、足元にほとんど雪がなく、凍ってもいないので走れる。普段の冬場にはありえないことだ。
これは少雪だからこそ見られる良き眺めかもしれぬ
午後3時頃の家の裏の田んぼの法面
昨日の段階でどれほど雪が少なくなっていたか、そして今日の雪がほとんど積もらないことがわかる一枚だろう
15日(金) 13日の秋山行きではほとんど配達ができなかったので、雪が降ってはいたが、秋山の配達に行くことにした。
屋敷、小赤沢、上の原、和山の順で計74軒を廻った。
屋敷では、昨秋に「屋敷集落を歩く」、「布岩巡り」という写真アルバムを編集した(ブログにアップ)ことをふまえ、その冬版を作りたいなと思い、2時間ほどかけて写真を撮りながら、廻った。降雪の中での撮影で、やはり布岩が鮮明に見えるものは撮れなかった。
そんな中、屋敷から五宝木方面に向かう道路が除雪されていることに気づき、慎重に進んでみた。布岩直下の近くまで行けた。布岩直下の撮影ポイントへは歩いて行けそうだったので、歩を進め始めた途端に雪が猛烈な横殴りの降り方に変わった。危険を感じ、布岩直下に進むことは断念した。
11時35分撮影の布岩。横殴りの雪の中、望遠で撮影。見えるか、見えないかという感じの、こういう写真もそれなりにいいのではないだろうか。
午後1時半すぎ、上の原での配達を終えた頃、青空が見え始めた。白樺の木の上で、「ギーギー」と鳥が鳴くのが聞こえた。鳥の姿をカメラで捉えることができた。私は鳥の名前はさっぱりわからないので、後日、鳥に詳しい人に照会してみようと思う。
上の原の配達が終わる頃から背中に疲れを感じ始めたが、ふんばって和山の配達へ。そして、午後3時頃、小赤沢まで戻り、「さあ、今日はこれで帰ろう」と思ったところで地域おこし協力隊の木村敦子さんに出会った。「今から道祖神祭。3時に屋敷で点火、小赤沢は4時」とのこと。躊躇なく屋敷に向かった。1時間弱、撮りまくった。4時からの小赤沢は「どうしようかな。帰り道が暗くなるな」と少し躊躇したが、「やはり小赤沢も撮らなければ」と思い、小赤沢の会場へ。
ここでも徹底的に撮り、最後の「みかん撒き」の終盤でカメラのメモリカードが一杯になってしまった。こんなことは2011年7月の東北・三陸海岸訪問時以来のこと。今日の撮影枚数は2,549枚
16日(土) 午前中は中野市の耳鼻科に出かけた。年末にひいた鼻風邪から鼻炎を起こしたのだ。8日に受診して、抗生物質の投与などを受けて快方にむかっているが、15日に秋山に行った際、薬を持参せず、半日以上、薬を服用しなかったら、ちょっと具合が悪くなったので、念のための受診。
着くと、駐車場は満杯。近くの薬局の駐車場に停めさせてもらったが、医院に入ると、座る席がない。結局1時間半待ちだった。いっぱいの患者さんがいたにもかかわらず、雪長靴は私の他はもう一人だけ。外は青空で、雪とはまったく無縁の世界。
村に帰ってくると、国道が真っ白。集落内道路はかなり積もっている。知人に言わせると、「この冬初めて、栄村らしい降り方だった」とのこと。
16日午後1時40分すぎの大久保集落付近
午後は原向などで配達。計39軒にとどまったが、価値ある39軒。雪の中で、車から降りてかなり歩かなければならない家が多い地域での配達だからだ。
原向の登渡地区で切欠堤への道に車が入った跡があるので、そちらに向かった。途中で車は進めなくなったが、歩いた跡(新しいもの)があったので、長靴が埋まるほどの深さの中を進み、冬の切欠堤の様子が撮影できた。
極野集落では“たね”の写真などを撮り、夕刻、「雪国と水」というブログ記事を編集してアップした。反応はいい。
17日(日) 朝、気温がぐっと下がり、路面の凍結が厳しいと思い、配達への出発時刻を遅めにし、9時少し前に出かけた。
まず、雪坪集落を廻ったが、いい写真が撮れないかなと思って、村道滝見線(冬期閉鎖)の方に行ったら、除雪がされていて、猟犬を伴った人から「塩尻まで行けるよ」とお聞きした。進んで行くと、奈免沢(なめざわ)の方にも行けそう。奈免沢川の橋まで進み、道はさらに開いていたが、そこでターン。千曲川を挟んで役場の対岸からスキー場方向などの写真が撮れた(下写真)。この時期にこんな写真が撮れるなんて、やはり極端に雪が少ないのだ。
東部や月岡、小滝などで計146軒を廻り、No.274の配達を完了。10日午後から配達を開始したとはいえ、「7」の日で配達完了とは速いペースだ。例年の積雪があれば、ありえないスピードだ。
18日(月) No.274の配達が完了しているので、15日に秋山で撮った写真のデータ整理をしながら、途中、森宮交通の取材や、直売所の様子を見に行ったりした。また、午前と午後の2回、雪の様子をブログにアップ。
雪は朝9時から午後4時頃までずっと降っていたが、たいした積雪にはならず。国道や「トマトの国」への道は除雪車が出たが、集落内道路は出ず。
15日の屋敷と小赤沢の道祖神祭の写真は、よさそうなものをピックアップしただけでも296枚。写真は撮れるだけ撮るほうがいいのだが、そのデータの整理がとてつもない大仕事になる。悩ましいところだ。
19日(火) 予報では一日中ダルマのマークだったが、朝起きると快晴。午後からほんの少し降ったが、積もるようなものではない。夕刻に長野地方気象台から栄村に大雪警報が出されたが、本当に降るのだろうか。
昨夜、嬉しいメールが届いた。飯山線をSLが走る写真が送られてきたのだ。東京の知人からで、ご主人が「鉄道マニア」で、高校生時代に飯山線で撮られた写真があるというのだ。
天気がよいので、朝9時すぎの列車が通る瞬間を狙って、横倉集落の千曲川沿いの現場へ。例年並みの積雪があれば、この時期には近づけない場所だ。いい写真が撮れたと思う。
飯山線撮影地点近くから横倉駅方向を望む
現場周辺の様子に71年当時と較べて微妙な違いがあったので、横倉の渡辺利正さん宅をお尋ねした。やはり圃場整備で少し変化があったようだ。利正さんはお婿さんで野沢温泉の出身だが、奥さんのうめ子さんからのSL時代の思い出をお聞きすることができた。
森宮野原駅に転車台(機関車の向きを変える設備)があった当時の写真もいただいたので、その現場も撮影してきた。撮影された場所はどうも線路と線路の間のようで、列車が来ない時間に撮影に入ったが、飯山方面からロータリー車が入って来て、慌てた(撮影のためにいた場所はロータリー車が走行する線路とは関係なかったが)。いただいた写真には、今はもうない古い家も写っていて、昔を知る人たちにお話を聞きに廻った。
それ以外はNo.275の編集作業。
*1月1日〜9日は配達をやすんでいたので、「日誌」はなし。その間に撮った写真を数枚、掲載しておきたい。
降雪の中、天池付近を歩く(1日)
上の原のあるお家にて(2日)。このロータリーは私と同世代のかあちゃんが操作しておられる。
ソリ遊びする島田きみ子さん(青倉)のお孫さんたち(3日)
家の近くでナラの木を伐り倒し、薪用にチェーンソーで切る斉藤克己さん
例年のこの季節では考えられない作業(5日)。
車が入った跡があったので東部パイロットに入ってみた(5日)